お龍は、明治8年7月2日三浦郡豊島村深田222番地(横須賀米が浜通)の西村松兵衛と再婚、入籍する。入籍時に「西野ツル」と改名している。晩年、在横須賀の退職海軍軍人・工藤外太郎の庇護を受け余命を送っている。明治39年1月15日午後11時に永眠。67歳。遺骨は信楽寺の好意で同寺の墓地に葬られる。
浄土宗 信楽寺(しんぎょうじ) 横須賀市大津3−29−1
横須賀市の除籍簿写には 嘉永3年(1850)6月6日生まれと記載されているが、信楽寺の墓碑には明治39年(1906)1月15日没と刻印されている。享年66歳。逆算すると天保12(1841)生まれになり、除籍簿写とは9歳の差がでてしまう。龍馬が、慶応2年(1866)12月4日に姉乙女へ送った書簡で、お龍を紹介する文面には「今26歳」とあり、天保12(1841)生まれが正しいようだ。
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楢崎龍。天保12(1841)京都府下京区柳馬場生まれ。
町医師(漢方医)楢崎将作の長女。母は近江八日市重野庄兵衛の娘お貞。楢崎将作には、5人の子(娘3人男2人)がいた。長女龍、次女光枝(7歳下)、三女起美(キミ)(11歳下で墓は南麻布光林寺)、長男太一郎(16歳下・大正14年9月死去69歳)、次男健吉(18歳下)。
父楢崎将作は安政の大獄に連座し捕縛される。その後、病死。楢崎家は柱を失い、離散する。妹2人は大阪と島原に売られるが、お龍は取り戻しに走った逸話が残っている。
お龍の父親の死から2年後の元治元年(1864)に、龍馬は現在の三十三間堂の南門前・本瓦町付近で河原屋五兵衛の隠居所を借り、中岡慎太郎・菅野覚兵衛らと隠れ住んでいる(正確な位置は不明)。ここに出入りしていた米商・菊の紹介で、お龍の実母お貞は、四条木屋町の借家(正確な位置不明=京都龍馬会により同本部前に石柱が建つ)から留守番と賄いを兼ねて、娘起美を連れ移り住んでくる。木屋町の借家に残ったお龍も、七条新地の旅館扇岩に手伝い女中として住み込む。龍馬とお龍の運命の接点がここに生まれたのだ。元治元年5月頃、お龍23歳のことであった。
お龍が幕末の歴史に名を残すのは、慶応2年(1866)1月23日の寺田屋事件で、26歳の時のことだ。二日前の1月21日に、京都薩摩藩邸で龍馬同席のもとに薩長同盟が成立した。龍馬らを探索した幕府方は、ただちに伏見奉行所に下命し、捕方100名余を伏見の船宿寺田屋に遣わして、龍馬・三吉慎蔵の両名を包囲急襲する。お龍は、寺田屋一階北奥の風呂場で入浴中で、その肩先に槍の穂先が突き出され、気丈に誰何(すいか)するも捕らえられ、客の名を問いただされる。出鱈目の名を告げて釈放されると、袷(あわせ)1枚を引っ掛けて勝手(風呂場隣)より、龍馬の部屋に駆けつけ、敵が槍を持ち梯段を上ってくると襲来を知らせる。この知らせで竜馬・慎蔵は応戦準備に取り掛かる余裕ができ、不意打ちをまぬがれたのだ。龍馬は長刀と高杉晋作より贈られた六連砲(ピストル)を手にとり、慎蔵は襷(たすき)をかけ得意の槍を構えた。龍馬は、6発全弾発射している(内5発が捕方に命中)。だが、龍馬は捕方の刃を銃で受け止めた際、指を負傷。右手の親指と人指指の間に受けた深傷は、動脈を切断し、数日出血が止まらなかったと伝わる。お龍、慎蔵の相次ぐ伏見薩摩屋敷への急報(それぞれ別に走っている)により、吉井幸輔ら薩摩藩士60余名が救出に駆けつけ、龍馬は夜のうちに薩摩屋敷内に運び込まれ、潜伏する。その後、西郷らの勧めで薩摩屋敷から京を離脱し、鹿児島に療養(右手負傷)の旅に出発する。日本初の新婚旅行といわれる船旅(薩摩の蒸気船三国丸)であった。慶応2年(1866)3月10日、鹿児島港着。3月17日に霧島に10泊以上の温泉巡りの旅に出発する(現地から土佐在住の姉宛の手紙が有名。高知県立坂本龍馬記念館でその霧島の図絵入り手紙を見たが、独特の下左に曲がり流れる癖も確認できた=あの展示の手紙はレプリカだった?)。
慶応3年(1867)11月15日夜、四条河原町近江屋井口新助方の2階で、京都見廻組与力・佐々木只三郎の配下7名の急襲をうけ、龍馬・中岡慎太郎両名は斬殺される。龍馬33歳。この時、お龍は妹の起美と共に、下関・伊藤家に預けられていた。
お龍は、慶応4年(1868)4月より、龍馬の実家土佐の坂本家で乙女の口添えもあり暮すことになるが、ほどなくして、明治2年には京伏見の寺田屋(鳥羽伏見の戦いで全焼)を頼り、龍馬の眠る東山霊山近くで借家住まいをしている。さらに明治6年、妹の起美の嫁ぎ先の菅野覚兵衛(海援隊隊士)を頼り、寄寓(東京の築地)する。ここで再婚する西村という商人と出会ったのだ。起美は16歳で龍馬のとりなしで覚兵衛に嫁ぎ、昭和9年9月に神奈川県大磯で83歳で亡くなっている。
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信楽寺門前の説明版にある写真は、裏面に「たつ」と記入がある井桜直美氏所蔵の浅草・内田九一堂写真館(明治8年まで営業)で撮られた腰掛ポーズの1枚だ。同じ写真スタジオで撮られた立ちポーズのもの(「お竜」と鉛筆で記入)が龍馬暗殺の現場近江屋井口家の所蔵で残されている。「伝・おりょう」とあるように本人だと確定された写真ではない。お龍は、明治6年後半の33歳の時に、京都から東京に転居しているので、浅草の内田九一堂はまだ存在しており営業していた。写真スタジオに出掛けた可能性を否定できない。晩年の写真とは比べようもないほどの美人なので、本人であってほしいという願望が多いのだろう。明治37年12月15日の「東京二六新聞」にのった記事「阪本龍馬未亡人龍子」にある64歳の老境の写真(横浜日本新聞博物館所蔵)が唯一の本人自らが名乗って残した写真なのだ。その写真と同じ表情の集合写真が、横浜で働いた料亭・田中家に所蔵されている。
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*お龍に関する各項目はそれぞれ別個に作成予定
平成17年、再婚先の西村家の子孫が、京都右京区寿寧院(嵐山)に父楢崎将作とお龍の永代供養塔を建立している。
参考
「史料が語る 坂本龍馬の妻お龍」鈴木かほる 新人物往来社刊2007年発行
料亭・田中家の「おりょう」 http://zassha.seesaa.net/article/380154207.html
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