2009年12月18日

横須賀 京急大津 信楽寺 お龍の墓

坂本龍馬の妻お龍の明治維新以降の略歴。
お龍は、明治8年7月2日三浦郡豊島村深田222番地(横須賀米が浜通)の西村松兵衛と再婚、入籍する。入籍時に「西野ツル」と改名している。晩年、在横須賀の退職海軍軍人・工藤外太郎の庇護を受け余命を送っている。明治39年1月15日午後11時に永眠。67歳。遺骨は信楽寺の好意で同寺の墓地に葬られる。
 浄土宗 信楽寺(しんぎょうじ) 横須賀市大津3−29−1

横須賀市の除籍簿写には 嘉永3年(1850)6月6日生まれと記載されているが、信楽寺の墓碑には明治39年(1906)1月15日没と刻印されている。享年66歳。逆算すると天保12(1841)生まれになり、除籍簿写とは9歳の差がでてしまう。龍馬が、慶応2年(1866)12月4日に姉乙女へ送った書簡で、お龍を紹介する文面には「今26歳」とあり、天保12(1841)生まれが正しいようだ。
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 信楽寺山門
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 信楽寺本堂

楢崎龍。天保12(1841)京都府下京区柳馬場生まれ。 
町医師(漢方医)楢崎将作の長女。母は近江八日市重野庄兵衛の娘お貞。楢崎将作には、5人の子(娘3人男2人)がいた。長女龍、次女光枝(7歳下)、三女起美(キミ)(11歳下で墓は南麻布光林寺)、長男太一郎(16歳下・大正14年9月死去69歳)、次男健吉(18歳下)。
父楢崎将作は安政の大獄に連座し捕縛される。その後、病死。楢崎家は柱を失い、離散する。妹2人は大阪と島原に売られるが、お龍は取り戻しに走った逸話が残っている。
お龍の父親の死から2年後の元治元年(1864)に、龍馬は現在の三十三間堂の南門前・本瓦町付近で河原屋五兵衛の隠居所を借り、中岡慎太郎・菅野覚兵衛らと隠れ住んでいる(正確な位置は不明)。ここに出入りしていた米商・菊の紹介で、お龍の実母お貞は、四条木屋町の借家(正確な位置不明=京都龍馬会により同本部前に石柱が建つ)から留守番と賄いを兼ねて、娘起美を連れ移り住んでくる。木屋町の借家に残ったお龍も、七条新地の旅館扇岩に手伝い女中として住み込む。龍馬とお龍の運命の接点がここに生まれたのだ。元治元年5月頃、お龍23歳のことであった。

お龍が幕末の歴史に名を残すのは、慶応2年(1866)1月23日の寺田屋事件で、26歳の時のことだ。二日前の1月21日に、京都薩摩藩邸で龍馬同席のもとに薩長同盟が成立した。龍馬らを探索した幕府方は、ただちに伏見奉行所に下命し、捕方100名余を伏見の船宿寺田屋に遣わして、龍馬・三吉慎蔵の両名を包囲急襲する。お龍は、寺田屋一階北奥の風呂場で入浴中で、その肩先に槍の穂先が突き出され、気丈に誰何(すいか)するも捕らえられ、客の名を問いただされる。出鱈目の名を告げて釈放されると、袷(あわせ)1枚を引っ掛けて勝手(風呂場隣)より、龍馬の部屋に駆けつけ、敵が槍を持ち梯段を上ってくると襲来を知らせる。この知らせで竜馬・慎蔵は応戦準備に取り掛かる余裕ができ、不意打ちをまぬがれたのだ。龍馬は長刀と高杉晋作より贈られた六連砲(ピストル)を手にとり、慎蔵は襷(たすき)をかけ得意の槍を構えた。龍馬は、6発全弾発射している(内5発が捕方に命中)。だが、龍馬は捕方の刃を銃で受け止めた際、指を負傷。右手の親指と人指指の間に受けた深傷は、動脈を切断し、数日出血が止まらなかったと伝わる。お龍、慎蔵の相次ぐ伏見薩摩屋敷への急報(それぞれ別に走っている)により、吉井幸輔ら薩摩藩士60余名が救出に駆けつけ、龍馬は夜のうちに薩摩屋敷内に運び込まれ、潜伏する。その後、西郷らの勧めで薩摩屋敷から京を離脱し、鹿児島に療養(右手負傷)の旅に出発する。日本初の新婚旅行といわれる船旅(薩摩の蒸気船三国丸)であった。慶応2年(1866)3月10日、鹿児島港着。3月17日に霧島に10泊以上の温泉巡りの旅に出発する(現地から土佐在住の姉宛の手紙が有名。高知県立坂本龍馬記念館でその霧島の図絵入り手紙を見たが、独特の下左に曲がり流れる癖も確認できた=あの展示の手紙はレプリカだった?)。

慶応3年(1867)11月15日夜、四条河原町近江屋井口新助方の2階で、京都見廻組与力・佐々木只三郎の配下7名の急襲をうけ、龍馬・中岡慎太郎両名は斬殺される。龍馬33歳。この時、お龍は妹の起美と共に、下関・伊藤家に預けられていた。
お龍は、慶応4年(1868)4月より、龍馬の実家土佐の坂本家で乙女の口添えもあり暮すことになるが、ほどなくして、明治2年には京伏見の寺田屋(鳥羽伏見の戦いで全焼)を頼り、龍馬の眠る東山霊山近くで借家住まいをしている。さらに明治6年、妹の起美の嫁ぎ先の菅野覚兵衛(海援隊隊士)を頼り、寄寓(東京の築地)する。ここで再婚する西村という商人と出会ったのだ。起美は16歳で龍馬のとりなしで覚兵衛に嫁ぎ、昭和9年9月に神奈川県大磯で83歳で亡くなっている。
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 信楽寺本堂の左手奥のお龍の墓
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               墓石台に刻まれている坂本家の桔梗紋
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井桜直美氏所蔵の「伝・おりょう」門前の説明版から まるで日差しを気にもしない山登りや女中仕事に汗した女には見えない 三業地にいる女の姿だ

信楽寺門前の説明版にある写真は、裏面に「たつ」と記入がある井桜直美氏所蔵の浅草・内田九一堂写真館(明治8年まで営業)で撮られた腰掛ポーズの1枚だ。同じ写真スタジオで撮られた立ちポーズのもの(「お竜」と鉛筆で記入)が龍馬暗殺の現場近江屋井口家の所蔵で残されている。「伝・おりょう」とあるように本人だと確定された写真ではない。お龍は、明治6年後半の33歳の時に、京都から東京に転居しているので、浅草の内田九一堂はまだ存在しており営業していた。写真スタジオに出掛けた可能性を否定できない。晩年の写真とは比べようもないほどの美人なので、本人であってほしいという願望が多いのだろう。明治37年12月15日の「東京二六新聞」にのった記事「阪本龍馬未亡人龍子」にある64歳の老境の写真(横浜日本新聞博物館所蔵)が唯一の本人自らが名乗って残した写真なのだ。その写真と同じ表情の集合写真が、横浜で働いた料亭・田中家に所蔵されている。
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京急大津駅 浦賀方向最前部に改札 奥の踏切を渡る
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信楽寺への曲がり角にある目印看板 信楽寺への途中にある「ローゼンベッカー」
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*お龍に関する各項目はそれぞれ別個に作成予定
平成17年、再婚先の西村家の子孫が、京都右京区寿寧院(嵐山)に父楢崎将作とお龍の永代供養塔を建立している。

参考
「史料が語る 坂本龍馬の妻お龍」鈴木かほる 新人物往来社刊2007年発行
料亭・田中家の「おりょう」 http://zassha.seesaa.net/article/380154207.html
posted by t.z at 22:53| Comment(0) | 関東各地tokyo-widearea | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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