2010年08月31日

大磯 新島襄終焉の地(旅館百足屋跡)

1889(明治22)年11月28日、大学設立の募金活動中の前橋で新島襄は腹部の激痛に襲われ、徳富蘇峰の薦めもあり、ここ大磯の東海道に面した百足屋旅館にて静養の日々を送ることになる。翌年の正月を百足屋旅館の離れ座敷で迎えるのだが、明治21年の夏に妻・八重は医師より夫が不治の病に冒されていると告げられている。この間の看病の逸話を八重は「亡愛夫襄の発病覚」に残している。この大磯での静養中に八重は重ねて看病を願い出るが、襄は病気がちな老母の看病こそが大事と配慮の言葉を八重に返している。
1月17日になり、襄の容態は急変する。20日午後11時頃に八重が駆けつけた時にはすでに危篤状態に陥っていた。死を覚った新島は徳富蘇峰に遺言を筆記させる。同志社のための十ヵ条と門下、友人らにあてた30通に及ぶ遺書。八重に対する最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」。1月23日、47歳の生涯を終える。
翌日、同志社の全校生徒と職員が迎えるなか新島の遺体は京都駅に着く。一旦、自宅に運ばれ、26日に同志社チャペルで追悼会、27日に4千人を越える参列者のもと告別式。実父の眠る南禅寺の塔頭・天授庵(横井小楠の墓が有名)に埋葬する予定でいたのだが南禅寺側は突如、キリスト教による葬儀は禁止の旨を通告。従うわけにはゆかず急遽、市の共葬墓地である若王子墓地(南禅寺の並びの永観堂禅林寺の裏山付近)に変更し埋葬することになったのです。
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正面の三角地が百足屋旅館跡で「新島襄終焉之地」石碑が建つ 左が東海道旧道・右は国道1号 (右写真)百足屋の敷地だった国道側から
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昭和15年10月に百足屋の旧地に徳富蘇峰の筆による石碑建立 「年」の文字に・・・納得
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(右写真)説明板に新島襄の略歴と百足屋の外観
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(左写真)石碑の位置から国道1号  この付近一帯は東海道・大磯宿の南組問屋場跡で井上蒲鉾店(駐車場が広くて良い)や真壁豆腐店、菓子の新杵など老舗が集まっていて立ち寄る価値大・・・管理人は以前、旧百足屋前の信号を曲がり「大磯港の岸壁釣り」(子供の遊びレベル)に数回訪れたことがあるのですが近年、港が整備され入りにくくなったようです(以前は堤防近くに駐車できて1日中楽しめた)

 *参考 「山本覚馬伝 闇はわれを阻まず」鈴木由紀子1998年刊
     同志社大学HP http://www.doshisha.ac.jp/
     同志社墓地 http://www.doshisha.ac.jp/information/history/neesima/graveyard.html

 
posted by t.z at 22:43| Comment(0) | 関東各地tokyo-widearea | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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