2010年11月22日

横浜・元町 中島敦「山月記」文学碑

中島敦の名作「山月記」を記念する文学碑が、中島が教諭として勤務した横浜高等女学校跡地に、没後33年にあたる昭和50年12月4日に、彼の教え子・同僚ら有志によって建てられた。「山月記」の初出は、昭和17年2月1日発行の「文学界」2月号で、「山月記」「文学禍」の2作品を併せた総題「古譚」として掲載された。
「山月記」発表から33年の経年と、中島敦の享年33歳という数字は符合する。無意味だろうが、足した66は、中島が担当した1年4組の生徒数と合致する。
中島は、昭和8年3月に東京帝国大学国文学科(現東京大学)を卒業、4月に同大学院に進学すると同時に、横浜高女(4年制)の国語・英語担当の教諭となる。横浜高女で8年間にわたり教鞭をとった後、昭和16年3月末で一旦休職(退職は6月16日付)し、南太平洋のパラオ島に南洋庁内務部地方課の国語編修書記として赴任(7月6日)する。「山月記」の発表は、翌17年2月のパラオ勤務(南太平洋の諸島をあちこちと視察移動)中のことで、正確には、すでに横浜高女を退職していた。「山月記」を発表した翌3月17日に中島は本土にもどるが、早々に喘息と気管支カタルを発症し、病床に伏してしまう。世田谷の自宅で療養を続けるが、11月中旬、近所の岡田医院(世田谷区世田谷1丁目)に入院、「山月記」発表から僅か10カ月後の12月4日朝に逝去する。
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(写真)横浜高女は、戦後まもなく(昭和22年)横浜学園と改称され、現在は同学園の附属元町幼稚園となっている。元町幼稚園の敷地内奥の崖下に、「山月記」の冒頭の数行が刻まれた記念文学碑が建っている。
<<隴西(ろうせい)の李徴は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自ら恃(たの)む所頗(すこぶ)る厚く、賤吏に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかつた。>>
碑文に続く文節は、
<<いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略(かくりゃく)に帰臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐(お)うて苦しくなる。>>
 *虢略=河南省にあった地名(虢州)。*ふり仮名は原文にないものも混在。
 「文學界」昭和17年2月初出。抜萃は「現代日本文學体系63」筑摩書房1970年刊より。
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(左写真)元町・汐汲坂の跡地に同学園の附属幼稚園が建っている。文学碑は坂の左手の園庭奥に建つ。背側が元町商店街。(右写真)昭和50年12月4日建立の山月記碑裏(陰面)。輝緑岩の自然石は荒川上流で採取されたもの。撮影2008年。
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(写真)汐汲坂沿いの一般道に面して説明板(略歴)が設けてある。
*文学碑は、幼稚園の敷地構内にあるため、立入は許可制(事務室に届出用紙あり)。

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(左右写真)中島敦の墓。昭和17年12月6日、世田谷の自宅で葬儀、多磨霊園に埋葬(16区2種33側)。

参考 「中島敦全集別巻 年譜」2002年筑摩書房刊
posted by y.s at 22:40| 横浜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする