2011年05月18日

西ヶ原 作家・内田康夫 生誕地

「浅見光彦」シリーズを代表作とする作家・内田康夫氏の生誕地を推理して撮影してきました。
評伝などで確定している情報もないままですので、まあ、なんとなくこの辺りということで
厳しいご意見など容赦して下さい。
おそらく先日の滝野川小学校の創立120周年に、浅見光彦氏への卒業証書授与に代理人で
内田氏が出席された当日、そのあと時間をさいてご自身の生家跡を見て廻られたと勝手に推理
したのです。一応、週刊文春のインタビュー記事を参考にして、アタリをつけた路地裏で近所
の方の出現を(いつもの方法!)それとなく待ちます。
で、あらわれたご婦人に会釈して話しを持ち出すと、「そういえば何回か見えているようですよ」
・・・空襲で焼け野原、当時の目印「本屋と薬屋の間の路地の突き当たり」などあるわけもなく、
戦前のおおまかな地図でつかんだ路地の特徴もビル建設で失われている。
私有地に入るのはもちろん不可。ほぼこの辺りという裏の道路からの写真のみになりました。
nishigahara uchida01.jpg nishigahara uchida04.jpg
  ビルとビルの間の辺りに細い行き止まりの路地がありました 同方向で滝野川公園前から
nishigahara uchida03.jpg nishigahara uchida05.jpg
  路地のあった裏側の道路・・奥左のアパート辺りが内田医院跡? 市電停車場のあった所
上右の写真の奥が滝野川小学校 内田氏の通学路 左奥が浅見光彦のソアラの駐車場がある神社

 
沼津・獅子浜 作家・内田康夫小学校時代疎開地(本能寺)http://zassha.seesaa.net/article/237786553.html
の年表と同じです。
1934年(昭和9年)11月15日 滝野川区西ヶ原町生まれ(東京市は35区に区分 現・北区)
              本名同じ 
1941年(昭和16年)4月1日 現・滝野川小学校入学
          4月1日 国民学校発足(3月1日 国民学校令公布)
         12月8日 対米英蘭宣戦布告 ハワイ奇襲・マレー半島上陸
1942年(昭和17年)4月 小学校(国民学校)2年生に
1943年(昭和18年)4月 小学校(国民学校)3年生に
1944年(昭和19年)4月 小学校(国民学校)4年生に
          7月7日 サイパン島日本軍玉砕・全滅
          7月7日 同日に4・5年生約100人で学童疎開開始 第1陣に入る
             沼津市静浦の本能寺に集団疎開
1945年(昭和20年)3月10日夜 東京大空襲 B29下町一帯焼夷弾爆撃
          3月中旬 滝野川区の生家に戻る
          4月13日〜14日 滝野川区一帯米軍空襲に遭遇 生家焼失

内田康夫公認 浅見光彦倶楽部公式サイトhttp://www.asami-mitsuhiko.co.jp/
ファンクラブのページです。私は大ファンですが未加入です。
なぜファンかは、内田氏のご母堂と私の母が同郷、梶原に代々住み、おそらく同じ空襲で
3階建て木造の家が全焼しました。インタビュー等拝読するたびに親近感が増します。
ついでですが、平塚神社の氏子でした。
2007年3月に宿泊施設「浅見光彦の家」が軽井沢にできたそうで、上記サイトに特典など
記載されてます。

    nishigahara uchida06.jpg     nishigahara nouhos06.jpg
          旧表示の番地です   内田医院の西側裏にあった王子脳病院の入口・戦前の面影が・・・
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posted by t.z at 09:56| Comment(0) | 東京北西部tokyo-northwest | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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