現在「服部半蔵」として通用しているのは2代目服部半蔵の正成。服部石見守正成です。
秀吉の小田原城攻略後の1590年(天正18年)8月徳川家康の関東入国に従い江戸に入り、与力三十騎・伊賀同心200名を配下におき江戸城西ノ門警備を命ぜられ、その門は半蔵門の名に。
間もなく出家隠居し麹町の清水谷(現在の紀尾井町の信号から東側あたり)に庵をもうけ晩年をすごし1596年(慶長元年)11月14日に55才で死去。江戸在住期間は6年余。
1593年(文禄2年)家康に命ぜられこの地清水谷に寺の建立を企てますが果せないまま没し完成した寺名は半蔵の法号から西念寺に。
その後、西念寺は1934年(寛永11年)江戸城惣廓修築決定により現在地に移転。その後、清水谷から400mほどの位置に外郭として赤坂・四谷・市ヶ谷・牛込へと連なる外濠が開削。
西念寺は外濠の外側に移転したことになります。
家康が三河・遠州支配時代の1579年(天正7年)9月15日、家康の正室築山殿の武田方への内応謀反事件に関連した嫡男岡崎三郎信康の自刃の検使として半蔵正成は天方山城守通経と共に遠州二俣城(城主大久保忠世)に遣わされ信康の切腹・介錯に立ち会ってます。(当初介錯役は半蔵正成だがはたせず天方通経が首を落とす)
事件発覚は信康の正室である徳姫(織田信長の娘)の12ヶ条の信長への訴状によるといわれてます。信康との不和、武田方との内応が訴えられ怒った信長が家康に処分を命じた事件ですが憶測・策謀もあり明確な史料も不足してるみたいです。本能寺の信長襲撃の首謀者が家康説まで出てくる事件です。(事実、家康は明智光秀の関係者を以後かなり優遇) この本能寺の変で堺に滞在中の家康を無事に三河に脱出させた「伊賀越え」に功をなしたのが伊賀出自の服部半蔵正成です。
半蔵正成は信康の遺髪を譲り受け供養し、現在も西念寺の半蔵正成の墓の傍らには信康の供養塔があります。
ちなみに初代服部半三(蔵)保長は伊賀国出身で将軍足利義輝の支配下で石見守を称し、将軍義晴にも仕えますが伊賀から三河支配の松平氏の元に。家康の祖父・清康、家康の父・広忠に仕えます。
3代目服部半蔵は正成の嫡男・服部正就。伊賀同心の支配を引継ぎますが服部家の従者扱いをしたため伊賀同心の反発によって正就は改易。服部家は3代までで以後江戸の中央の歴史からは名前が途絶。
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岡崎三郎信康関連 信康法名「騰雲院殿達岩善道大禅定門」
江浄寺(静岡市清水入江 当時は江尻) 信康の遺髪納めた五輪塔
若宮八幡宮(岡崎市) 信康首塚
清瀧寺(天竜市)信康遺骸 信康家臣で殉死した吉良於初の墓もあり
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