小料理「ままや」。以後、向田邦子の事故死を乗り越え、20年間にわたり営業を続けてきた。
開店のいきさつは、向田邦子のエッセイ集「女の人差し指」に収められた「ままや繁盛記」に詳述されている(初出「ミセス」昭和53年11月号) 。
<<おいしくて安くて小奇麗で、女ひとりでも気兼ねなく入れる和食の店はないだろうか。切実にそう思ったのは、三年前からである。仕事が忙しい上に体をこわしたこともあるが、親のうちを出て十五年、ひとりの食事を作るのに飽きてくたびれたのも本音である。
(略)
幸か不幸か、我が家は食いしん坊と同時に、嫁き遅れの血統もあるらしく、末の妹の和子が適齢期を過ぎたのに、苗字も変らずに居る。この妹を抱き込んで、店を出そうと決心した。
妹は、火災保険の会社に勤めるOLであったが退職し、一年ほど前から五反田で「水屋」という小さな喫茶店をやっていた。どうにか常連の客もつき、女ひとり食べてゆくのに不安はなさそうだったが、場所が大通りから離れていることもあって、活気という点では、いまひとつ、面白味がないように思っていた。
赤坂に十五坪の出物があると知らせが入ったのは、この一月末であった。
その前に六本木表通り角の靴屋の地下に、十二坪の居抜きのはなしがあったのだが、これは見送っている。理由は、この道五十年というベテラン不動産屋の、「履物屋の下の食べ物商売というのはねえ」というひと言と、その頃、私の知人の間で起った二件の酒の上の転落事故である。万一の時、寝覚めの悪い思いはしたくない。
その点、赤坂は一階である。場所も広さも申し分なかったが、その代り権利金もいいお値段であった。これだけで、予算をオーバーしている。しかし−「店は場所である」。ローンを払い終った私のマンションを抵当に銀行融資の詰もまとまったことだし、思い切ってここで勝負してみようということになった。三月一日大安吉日を選び正式契約。設計は高島屋設計部。工事は北野建設が引受けて下さった。
(略)
細長いウナギの寝床なので、従業員の更衣室は犠牲になったが、カウンター八席。四人のテーブルが三つ。奥に人数の融通の利くテーブルが二つ。定員二十八だが詰めれば三十二人は入る。従業員は妹と板前さんとあと三人。店の名は「ままや」。社長は妹で私は重役である。資金と口は出すが、手は出さない。黒幕兼ボン引き兼気の向いた時ゆくパートのホステスということにした。開店は予定より一月遅れて五月十一日となった。
おひろめ
蓮根のきんぴらや肉じゃがをおかずにいっぱい飲んで おしまいにひとロライスカレーで
仕上げをするーついでにお惣菜のお土産を持って帰れるーそんな店をつくりました
赤坂日枝神社大鳥居の向い側通りひとつ入った角から二軒目です 店は小造りですが味は
手造り 雰囲気とお値段は極くお手軽になっております ぜひ一度おはこびくださいまし
案内状の文面である。開店当日は、みごとな大雨であった。しかも、開店時刻の午後五時には、暴風雨である。それにしても、客が入らない。本日開店粗品差し上げますの看板は、雨に打たれているとはいえ、入口には、スターさんたちの生花が飾ってあるのに、みな、店内をのぞくだけで通り過ぎてしまう。
(略)
はじめて四カ月。雨の日も風の日もあったが、思いがけずお客がつき、おかげさまで、まだ大の字はつかないまでも、繁昌している。>>
以上、「向田邦子全集第10巻 女の人差し指」文芸春秋2010年より抜粋。
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<<遺品の嫁入り〃が終わった平成十年三月、姉と始めた「ままや」を閉店した。二十年やったことになる。最初の三年三か月は二人三脚だった。いざとなれば、自称「黒幕兼ボン引き」に責任をとってもらえる。無意識のうちに甘えていた。「黒幕兼ボン引き」 にスパッと去られて、ひとりでやるしかない状況になった。
十年、店をつづけたら、姉の意志に応えたことになると勝手に思った。「よくがんばった」と褒めてもらえそうな気がして、どんな事があっても十年はやる、と誰に相談するともなく決めていた。そして十年経った時、ひょんなことで病気になり、入院するはめになった。「ままや」をたたもうと思った。母も、姉の迪子(みちこ)も賛成してくれた。ところが、店で働く人が賛成してくれない。
「ままや」は閉めないで欲しい、自分達でやって、うまく行かないなら、あきらめるが、一か月でも二か月でもやりたい、と言われた。これもいい経験だろう、と口出しせず、おまかせすることにした。私も退院後は店にこれまでの半分の労力しか傾けず、少しずつ体をならして行った。
(略)
余裕や余韻をたっぷり残して、きれいさっぱり幕をおろしたい。私の意地と見栄だったが、誰になんと言われようと、その決心は変えたくなかった。
よくつづけた、よくやった、という自己満足と肩の荷がおりる解放感、時間の自由……数えあげれば、きりがないが、熱い思いが胸のうちでうず巻いていた。
邦子が死んで十七年目。母九十歳、私は六十歳を迎えようとしていた。平成十年三月末、惣菜・酒の店、「ままや」の暖簾をたたんだ。>>
向田和子「向田邦子の恋文」新潮文庫2002年収録の「ままやの暖簾をたたむ」より抜粋(単行本1999年平成14年7月新潮社刊)
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寿司店「寿司むらまつ」の店主の話によると、和子さんが食事がてら訪れているとのこと(複数回来たのかどうか、記憶があいまい)。向田邦子が生前に購入して、母親と和子が暮らす赤坂氷川神社下のMSから散歩がてらやってきたのだろうか。
寿司むらまつ
港区赤坂3-6-20 第9ポールスタービル1階
定休日 日曜・祝日
営業時間 平日11:30ー14:00 17:30ー23:00 土曜17:00ー22:00
<<火災保険の会社に勤めるOLであったが退職し、一年ほど前から五反田で「水屋」という小さな喫茶店をやっていた。>>
「ままや」を始める前に向田和子が経営していた喫茶「水屋」の場所は、確定とはいえないが、写真を掲げてみる。
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<<迪子(みちこ)姉は私と同じ実践女子学園の出だが、学校でも目立たない生徒だった私と違って、小さい頃から社交家で、利発で、勉強のできる元気のいい子だった。私が「ままや」を始める前に五反田でやっていた喫茶店「水屋」を開店するときにも、夫の仕事の関係で名古屋に住んでいたのにわざわぎ上京してきて、什器の準備や厨房の整理、メニューの用意などを率先しててきぱきと実行してくれた人で、すごく勘がいいというか、私と違って目ざとい人である。
「一千万円は私が出すから、自由に使って。ほかに五百万円、融通してもいい」
それで、ドジで不慣れな私が、迪子姉や友達の協力を仰ぎながらスッ夕モンダの末に開店にこぎつけたのが、五反田の喫茶店「水屋」(みずや)だった。
昭和五十年四月二十八日。「水屋」は、姉の命名である。開店した当座は案の定、ドジな私らしい失敗の連続で、舞い上がりっばなしだったが、幸い、気のいいお客さんに恵まれて、徐々にそれらしくなっていった。
五反田で開店したのは特に地縁があったわけではなく、たまたま手頃な物件が見つかったからここに決めたのだったが、周りに小さな会社や事務所が結構多く、そこの人たちが利用してくれた。
(略)
半年前、私の「脱サラ」に共鳴してくれた姉は、頼りない私をサポートして、この五反田の物件を決めるときにも同伴してくれたし、開店準備の作業にも何かとアドバイスしてくれたのだったが、本人はまさに仕事に脂が乗りきった時期だった。「寺内貫太郎一家」「じやがいも」などの脚本のほかにもエッセイや対談をたくさん抱えて超多忙の毎日だったから、「水屋」に顔を出したのも、ほんの二、三回だったと思う。
十月の初め、昼どきの忙しい時間が終ってカウンターでボケッとしていた私に、その姉が電話してきたのだ。「明日の朝、店に行く前に、青山のマンションに寄ってください。お母さんには、そのことを言わないでね」
翌日、言われたとおり朝早く姉に会いにいった私は、乳癌を告白された。>>向田和子「姉 向田邦子の遺書」文芸春秋2001年11月刊より
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>miki yamaguchiさん
コメントありがとうございます。向田邦子さんの関連スポットは次々と消え去っています。南青山骨董通りの和菓子の店(水羊羹が名物)は建替えでビルの上階に移転、住まわれていたマンションもだいぶ以前から取り壊しの公示が貼り出されており、住民の退去待ち状態。向田さんが時々訪れていた近所の喫茶店や果物店はすでに跡形もないです。