2013年01月25日

谷中 宗林寺 京都見廻組・佐々木只三郎の供養碑 

1868年(慶応4年)1月6日、京都見廻組与頭・佐々木只三郎は、京都南方の橋本〜樟葉(くずは)間での新政府軍との戦闘で銃弾を浴び重傷を負う。幕府軍は総崩れとなり大阪方面に退却。この夜、徳川慶喜はいち早く会津藩主・松平容保らを伴い、大阪天保山から幕府軍艦で海路脱出している。1月7日の段階で幕府軍は解体状態に陥ってしまう。
1月8日朝方から、一部の敗走する幕府軍が和歌山に到着し始める。新政府軍に恭順の意を表している紀州徳川家は、城下で救助の手を差し伸べるわけには行かず、城下から離れた東方の紀三井寺村付近で糧秣の配布を行っている。1月9日には新政府軍の先遣隊が大阪城及び市中を制圧。佐々木只三郎は1月8日頃までは生存していたようで紀三井寺の近辺で死亡している。由良という小さな漁村付近で、1月12日に死去したとの情報も残されている・・・。遺骸は、紀三井寺に運ばれ、本堂の裏山に葬られた。

1974年(昭和49)、紀三井寺で佐々木只三郎の墓碑が二つに折れた状態で発見される。上部部分は100mも離れた草むらから発見されている。1976年(昭和51)に改葬式が行われ、折れていた旧墓石は修復され、会津若松市内の会津武家屋敷内に安置される。旧墓石から忠実に再現された新墓が、紀三井寺の裏山墓地の同じ場所に建てられている。2004年(平成16)になって谷中・宗林寺(しゅうりんじ)の墓地内に佐々木家により供養碑が建立される。
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谷中・宗林寺の東方向に開いた門
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佐々木只三郎の戒名「賢浄院殿義岳亮雄居士」が刻まれた表面 右に佐々木高城=只三郎 左に実弟・佐々木高嶽=源四郎の名が並記されている
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(左写真)裏面の下側に「高城 妻 津」・・・只三郎の妻の名

*参考資料
 「京都見廻組秘録」洋泉社2011年刊
 「京都見廻組史録」新人物往来社2005年刊
 「会津戊辰戦争写真集」新人物往来社2002年刊
posted by y.s at 07:08| Comment(0) | 本郷・谷中・根津・千駄木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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