2013年01月31日

京都 高等女学校之濫觴・女紅場址の碑

明治の初頭、会津戦争を生き抜いた山本八重が3年ほど働いていた京都・丸太橋際の女紅場跡です。

1872年(明治5年)4月14日 新英学級及女紅場<女紅場=にょこうば>開設
              土手町丸太町下ル 旧九条家河原殿に教場

現在、丸太町橋西詰の南側に「女紅場址 本邦高等女学校之濫觴」の文字が刻まれた石柱が残るのみ。
丸太町通に面した北側向きが表面で「濫觴」の意味は「大辞泉」によれば<物事の起こり、起源という意味・・読めますよね>。鴨川向き面には昭和7年10月の建立年月、背面には母校創立60周年記念・京都鴨沂会。向かって右面は日付・場所と女紅場が府立京都第一高等女学校に改称された説明。
敷地は現在のスーパーフレスコ丸太町店(=レトロな旧・京都電信電話会館)と南側の鴨川銀杏館+キリンビール寮を囲むほぼ90m四方。西辺は三本木通であったと推測。
九条家河原殿の門が教場の門としてもそのまま流用され、現在は後身の府立鴨沂(おうき)高等学校の寺町通に面した場所に移築されてますが、女紅場時代の位置は不明。丸太町通に向いていたのだろうか。茶道(千家)・華道(池の坊)はもちろん・・英語(米人)・裁縫・機織(はたおり・西陣の機織師)・礼儀作法・絵画(跡見学園創立者ら)・紡績までと充実。
上洛(明治4年秋)して1年ほどの八重も権舎長と教導試補を兼ね舎監を務めながら紡績・養蚕を教えています(明治5年年末か?)。

1876年(明治9年)女学校及紅場と改称。
その後、府立京都第一高等女学校と改称。戦後、現在の府立鴨沂高等学校に。
 府立鴨沂高等学校 http://www.kyoto-be.ne.jp/ohki-hs/(学校のHPに歴史載ってます)
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寺町通に面した旧・九条家河原殿の移築された門(女紅場の丸太町通側の門・現在は鴨沂高校校門)

鴨沂高校のHPに画像がアップされてますが、女紅場開設当時の京都府の実力者・槇村(まきむら)正直(長州藩士・明治10年に府知事就任・実権は明治3年頃より 議場で新島八重の兄・府顧問の山本覚馬と対立もあった)の筆になる扁額が校宝(?)として保存されているようです。八重は明治8年10月15日に、反キリスト教の諸勢力(僧・神官ら)の圧力を受けていた新島襄と婚約したため即座に女紅場を解雇されています。同志社女学校(同志社女子大学の前身)が設立されるのは、その後すぐの明治10年。開校は明治11年9月16日。兄・山本覚馬と知事・槇村は当時、河原町御池の元長州藩邸付近の近隣に住んでいました。
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女紅場跡ですが左右1枚として見えますよね 見えるはずです 左の1本の大きな木の先くらいまでが敷地跡(のはず) 何処かに学術調査した資料あるはずだが不見識で見つけられず(府立総合資料館で一応調べたが・・検索方法が稚拙)

「大磯 新島襄終焉の地(旅館百足屋跡)」http://zassha.seesaa.net/article/161156782.html
「京都 新島八重の終焉地(新島襄旧邸)」http://zassha.seesaa.net/article/311806567.html
                 上の新島襄旧邸に女紅場址の地図有り

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posted by t.z at 15:15| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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