幕末(1863年文久3)、壬生寺周囲に浪士組(=新選組)が展開したが丁度この遊女屋と真逆の北・東側の一帯。月6回(4と9の付く日)、壬生寺境内で新選組の軍事調練が行われていたが遊女屋の女たちの耳にも気合いや掛け声の音が届いていただろうと想像します。ましてや大砲をぶっ放した時はその空気振動波は障子紙を突き破るほどだったのでは。
現在も毎年4月に壬生寺名物の壬生念仏狂言が開催されているが、この催しが遊郭発生と関係しているらしい。江戸期には各地の寺院の参道や門前には参拝人(坊さんも)を狙っての遊女屋が見受けられる。江戸の谷中墓地の入り口の遊女屋や上野不忍池の弁財天の参道(現在は両側にたこやき屋などの屋台がでる所=ずらりと遊女小屋が並んでいた)が有名。壬生寺では念仏狂言の見物客相手に境内に茶屋が発生し、次第に茶立女も置くようになりこれが遊女屋に変化したようです。宝永年間(1704〜)には境内での夜間営業を禁じる命令が出ているのでかなり目に余る状態になっていたのでは。
新選組隊士の女性スキャンダルは数多くの伝聞が残っていますが、松原忠司の「壬生心中」・佐々木愛次郎の因幡薬師での「あぐり」をめぐる悲恋(あぐりは暴行される寸前に舌を噛み切り自害)・・・そしてこの遊郭を舞台にした山野八十八(やそはち)の大河ドラマにも匹敵してしまうほどの明治中期までの大恋愛ストーリー。慶応3年冬、山野は壬生寺裏の水茶屋「やまと屋」の娘と恋仲になり女の子が生まれる。・・長くなるので大幅にはしょると・・山野は鳥羽伏見の戦いに参戦・・生残って江戸に・・近藤勇指揮の甲陽鎮撫隊隊士として勝沼に進軍・・土方歳三隊で会津戦争参加・・転戦し北海道に(函館戦争)・・全滅してゆくなか生き残り・・京都に戻り・・六条河原町の小学校の小使いに・・時は明治29年に、一人の芸者が現れて山野を退職させ引き取ってゆく・・その祇園の芸者こそ父親を探しあてた壬生寺の水茶屋で生まれたあの女の子。
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和菓子といえばすぐ近くの旧・前川家の斜め向かいで70年以上ひっそり(?)と営業している「幸福堂」の金つばが絶品。一見、新選組の旗など出して土産物屋風だが親父さんの焼く四角い金つば・・・食べたくなってその為だけの目的でバスに乗って出かけたことがあります。おばちゃんも焼き上りを待つ間、そっとお茶を出してくれたり・・食べ物は好みがありますが「幸福堂(地図右上)」はお薦めです(注:金つば以外求めたことないので他は保障外ー水曜休み・朝7時30分から)。金つばの写真を探していますがHDの何処かに有るはずなのに行方不明。
*参照 「新撰組隊士録」2011年刊
「壬生村遊女屋絵図」
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