2013年03月02日

九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件) 

今回は、2月26日午前5時に一斉に決起した皇道派青年将校の指揮する各部隊が目標の襲撃を終えて永田町を中心にした国家中枢機関を占拠し緊張の内に夜営に入った時点からです。場所は翌未明に戒厳司令部が設置された九段・軍人会館で、そこを中心にした動きです。新聞記事の紹介が中心になります。

1936年(昭和11年) 
2月26日 
午前8時 内務省警保局が電話により各新聞社に事件に関する記事掲載を全面禁止通達。
午前9時頃 川島陸軍大臣が宮中に参内し事件を奏上。
正午 陸軍軍事参議官が参内。
午後3時 東京警備司令官・香椎浩平中将は第1師管に戦時警備を命令(決起部隊の占領地域も含む)。
午後3時20分 「陸軍大臣ヨリ」を告示。
午後7時 ラジオ放送が東京に戦時警備令の発令を知らせる。
2月27日
午前2時40分 枢密院が戒厳令の施行決定。
午前3時50分 帝都=東京市に戒厳令公布。東京警備司令官・香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が戒厳参謀に任命。当初の司令部は三宅坂。
午前4時40分 戒厳司令部より「戒作令第1号」下令。  
午前6時 戒厳司令部が九段・軍人会館に移動。
午前8時15分「戒厳司令部告諭第1号」発表。
午前8時20分 天皇が参謀本部から上奏された奉勅命令を裁可(発令は28日未明)
午前10時30分 九段坂上の偕行社に軍事参議官らが川島陸相と協議に。真崎大将に決起将校より連絡入る。
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九段坂下交差点南側の「軍人会館」(現在は九段会館)(右写真)北側駐車場側のホール玄関
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2月27日
午後2時〜3時(午後5時証言も有り)皇道派トップの真崎大将に2名の軍事参議官が同行し陸相官邸で決起将校と会見(栗原中尉・林少尉を除く)。軍事参議官3名は偕行社に戻る。  
午後4時 東京湾台場沖に海軍の戦艦「長門」を始めとする40隻の艦隊が終結し砲門の標準を永田町一帯に。
夜 決起部隊は宿営命令に従い各拠点に。本部は鉄道相官邸に設置。
午後8時30分 香椎中将(戒厳司令官)が宮中に参内し28日夕刻までの解決を奏上。
<27日、本庄侍従武官長は天皇に決起将校の精神だけでも認められないかと奏上してますが、「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス此(かく)ノ如キ凶暴ノ将校・・・」との返答。老臣らを殺害された怒りから徹底して「凶暴ノ将校」・・「暴徒」(川島陸相への返答)と言い捨てて繰り返し早急な鎮定を催促しています。>
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地図の軍事参議官らが拠点とした偕行社本部は軍人会館から九段坂を上った所 現在は道路向かい側の堀端に移った常燈明台が戦前はこの偕行社の前庭に設置されてました
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九段の戒厳司令部となった軍人会館(現・九段会館)の柱脇で直立して警備に当たる憲兵の写真はほとんどの2・26事件関連の書物に掲載されていますが右写真がその柱。左の新聞記事にも柱写真が載ってますがどうも別の場所っぽい?(柱左上奥の天井は同じよう)・・似たような意匠の柱が各玄関に存在してるので特定が難しいです。

2月28日
午前5時08分 奉勅命令が発令(所属原隊に復帰撤退せよ)。
午前8時頃 戒厳司令部で香椎戒厳司令官・荒木大将・川島陸相・今井軍務局長ら陸軍首脳が昭和維新を断行するか否かの上奏案を協議。杉山参謀次長・安井戒厳参謀長の反対で却下。
午前10時40分頃 奉勅命令が発令されているが下達しようとしない第1師団長の堀中将を戒厳司令部に呼び出し。堀中将は「皇軍相撃」を回避するため陸相官邸に向かう。 
午前11時頃 杉山参謀次長が参内し本庄侍従武官長に「反乱部隊」の武力討伐方針の決定を報告。
午後1時 川島陸相と山下奉文少将が参内し本庄侍従武官長に決起将校の自刃のための勅使派遣を要請。<天皇は侍従武官長のこの奏上を聞き、自殺するなら勝手に為せと激怒>
午後4時 戒厳司令部に決起将校が帰順せずの報が入る。
午後8時 香椎戒厳司令官(中将)が指揮下の各部隊に29日午前5時以降に攻撃可能にする準備命令を発する。
午後10時過ぎ 戦闘に備えて料亭「幸楽」(現・プルデンシャルタワー)の安藤隊が「山王ホテル」(現・山王パークタワー北側広場上一帯)へ移動。
午後11時 戒厳司令部(現・九段会館)「戒作命第14号」発令。29日午前5時までに攻撃準備を完了し、住民避難を行った後の午前9時を期して反乱各部隊への攻撃を命令。
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軍人会館の星型意匠の窓
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九段坂上の偕行社跡・・現在その敷地跡には大学のビル(この大学の宣伝をしたくないので名称は非表示・・神楽坂の情緒など気にする気配も無く拡大開発・・何年か前に工事現場に銃弾も) ビル前の歩道付近に戦前は常燈明台が置かれおり軍事参議官らも眼にしたはず
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香椎戒厳司令官の写真 (右写真)これが当時は偕行社前にあった常燈明台(現在は反対側の歩道橋脇に)

2月29日
午前3時すぎ、陸軍省新聞班の大久保弘一少佐が偕行社を訪れて軍事参議官らに下士官兵への帰順勧告文の作成・配布を提案し攻撃開始時刻の延長を要請。
午前6時25分 戒厳司令部は奉勅命令に反する反乱部隊への武力鎮圧はやむなしとの告諭発令。
<朝、飛行会館の屋上より「勅命下る軍旗に手向かうな」と帰順を促す大アドバルーンが揚げられる>
午前7時10分 戒厳司令部は千代田区・麹町区の一部住民に避難命令。
午前8時 立川飛行場から「下士官兵ニ告グ」のビラを乗せた飛行機が離陸出発。三宅坂周辺にビラ投下(宮城内堀に多く落ちて失敗)。反乱部隊のバリケード周辺では戦車でビラを撒く。
午前8時55分 戒厳司令部に反乱部隊の兵がラジオを聞いているとの情報が入り、即座に司令部内の特設放送室から中村アナウンサーが繰り返し下士官兵に「兵に告ぐ」をラジオ放送(原稿は大久保少佐)・・「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が・・・」。
午前9時30分頃より警視庁方面の反乱部隊から一部が帰順開始。
午後0時45分 反乱部隊将校15名の免官が内閣より発表。
午後1時前 山王ホテルの安藤隊を除く部隊が帰順。反乱部隊将校は陸相官邸に集められる。
午後2時すぎ 陸相官邸で野中四郎大尉が拳銃自決。
午後3時頃 山王ホテルで安藤大尉が拳銃自決を図るが失敗。重傷を負い衛戍病院に搬送。
午後3時 戒厳司令部の午後3時発表の終結宣言・・「全く鎮定を見るに至れり」。
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2月29日の勅命の前に賊軍となり決起は瞬時に崩壊・・全員自決を選択せず法廷闘争に・・26日の午前の段階での宮城占拠失敗が全てと思えます。天皇の27日午後の川島陸相への発言「朕自ラ近衛師団ヲ率イテ、此レガ鎮定ニ当タラン」は彼らに伝わったのだろうか。処刑場の窪地で銃口が向けられた時に何人が「天皇陛下万歳」と声にしたか知らない。

3月4日
午後1時30分 戒厳司令部から事件の概要が発表。
  <特設軍法会議の開設勅令公布>
3月18日
  <事件参加の下士官兵1360名の内1320余名の留置が解除される>
3月20日
  <戒厳令の一部が緩和解除>
3月22日
  <事件関連の記事差し止めが緩和され事件概要が新聞に掲載>
3月23日
  <陸軍 2・26事件責任者処分と首脳部異動を発表>
4月2日
  <戒厳司令官の人事異動 香椎中将から岩越恒一中将に>
7月18日
  <東京市の戒厳令解除>

「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監・私邸襲撃(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html

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posted by y.s at 23:44| Comment(0) | 東京東南部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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