2013年03月03日

三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)

「君側の奸」を討つべく一斉に決起した皇道派青年将校(中心メンバーは磯部浅一・村中孝次・野中四郎・香田清貞・栗原安秀・中橋基明・丹生誠忠・安藤輝三)の内、最後まで決起に躊躇し消極的であり、栗原・磯部・野中らによる説得・叱責を受け、決行日寸前の2月22日になって、やっと決心を固めた歩兵第3聯隊第6中隊長・安藤輝三大尉(32歳)の行動の概要。
決行具体案は、その翌日23日夜になって歩3(六本木竜土町)の週番司令室での会合で決定する。
一旦決意した安藤大尉は、2月29日に「昭和維新」が瓦解し、全部隊が原隊に帰順してゆくなか、赤坂「幸楽」から「山王ホテル」に部隊を引き連れ、最後まで抵抗の姿勢を崩さず、野中大尉の自決の報を聞くことによって自らも拳銃自決を図る。だが銃弾は致命傷とはならず失敗に終わる。
安藤輝三大尉の遺族は、事件当時から変わらず現在も世田谷の地で暮らしている(環7・246号交差点の近辺)。

昭和11年3月3日、東京衛戍刑務所・第1拘置監房(現在の渋谷区役所の位置)で、負傷・安静中の安藤元大尉に対し行われた渋谷憲兵分隊による尋問調書からの抜粋。
<<歩兵第三聯隊安藤中隊(第六中隊) 週番司令トシテ服務中ノ安藤大尉ハ二月二十五日午後九時頃所属中隊下士官十名ヲ招致シマシテ二十六日早朝直接行動ニ依り昭和維新ヲ断行スルコト襲撃目標第六中隊ハ鈴木侍従長ヲ襲撃スル事等ヲ告ケ一同ノ決意ヲ促シマシタ処皆参加ヲ願出タノテ襲撃ノ際ニ於ケル各自ノ分担任務ヲ指示シ更ニ週番士官坂井(中尉)、鈴木、清原ノ各少尉ヲモ召致シ非常呼集ノ実施、弾薬ノ受領其他ノ準備事項ヲ指示シ又聯隊兵器委員助手タル 下士官ニ弾薬ノ配給方ヲ指示致シマシテ午後十二時頃迄ニ重機関銃実包九千発、小銃実包約四万九千発、みどり筒六箇(*)、発煙筒五箇ヲ撒出シ出動部隊ニ夫々交付セシメ更ニ機関銃隊週番士官柳下(良二)中尉ニ対シ機関銃十六分隊ヲ編成シ二十六日午前三時迄ニ各出動部隊ニ之ヲ配属スヘグ命スル等万端ノ準備ヲ整へ二十六日午前三時ヲ期シ非常呼集ヲ行ヒ弾薬ヲ配給シ靖国神社ニ参拝卜称シ鈴木侍従長邸ニ向ツタノチアリマス>>
<<第一日ノ状況(二月二十六日)鈴木侍従長襲撃
襲撃部隊(安藤大尉ノ指揮スル歩三第六中隊ノ将兵約200名、重軽機関銃九銃)
安藤大尉ハ部下中隊ヲ率ヰ午前四時五十分麹町区三番町ノ侍従長鈴木貫太郎大将邸附近ニ到着致シマスルヤ各小隊長及分隊長ヲ集メ襲撃部署ヲ定メタ上同邸表門及裏門附近ノ道路上ニ各機関銃二銃ヲ配置シテ外部ニ対スル警戒ニ当ラシメ第一小隊ハ裏門ヨリ第二小隊ハ表門ヨリ夫々邸内ニ突入ヲ命シ更ニ一部ヲ屋外ニ止メテ警戒ニ任セシメ自ラ下士官兵約二十五名ヲ指揮シ屋内ニ闖入(ちんにゆう)致シテ奥ノ八畳ノ間ニ於テ鈴木侍従長ニ対シ下士官二名ニ命シ拳銃テ射撃セシメ侍従長力重傷ヲ負フテ倒レルヤ直チニ同邸ヲ引上ケタノテアリマス>>
*みどり筒=昭和初期に開発された強力な発煙催涙ガス弾(要ガスマスク)。(兵器類に詳しくないので、違うでと言われそう。靖国遊就館の兵器展示の中に含まれていたかなあ?)
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安藤大尉指揮の歩三第六中隊将兵約200名が表門・裏門に展開するため下った鍋割坂。侍従長邸は右奥。路地は宮城内濠に突き当たる。奥の森は近衛師団の兵営が置かれていた北の丸。

憲兵隊の尋問調書は句読点がなく、カタカナ文の為、判り易く省略形にしたのが以下。MGはマシンガン。
1936年(昭和11年)2月26日(水曜)
歩兵第3聯隊第6中隊長・安藤輝三大尉は自らの中隊及び機関銃隊4分隊(MG4門)に非常呼集をかけ、午前3時30分に計204名を指揮し聯隊営門を出る。雪道を隊列を整え行軍し、途中靖国神社に参拝し、午前4時50分頃に麹町区三番町2の鈴木貫太郎侍従長官邸に到着。兵力を二分し表門・裏門に配置し警戒待機させ所定の午前5時に同時突入開始。表門は安藤大尉指揮で開いていた小門から入り大門を開け進入し、裏門は塀を乗り越えて突入。警備の警官を包囲制圧し、屋内にいた書生2名を外に追い出した後に侍従長の捜索に取り掛かり(女中を起こし侍従長の居場所を訊いている)、奥の寝室で発見(侍従長は大声に眼を覚まし寝室隣りの納戸で日本刀を探すが見つからないでいる)。安藤大尉は即座に「打て!」と命令(*侍従長は廊下で出くわし「撃つなら撃て」と両手を広げて仁王立ちに)。発射(拳銃2発)した兵に関しては、廊下は兵で混雑しており記憶にないと尋問に答えている。その場に倒れた侍従長を見て目的は達したと全員を集合させ直ちに引揚げ命令(トドメは大尉が制止して引揚げている)。所要時間は約30分位で午前5時30分頃に侍従長官邸から引揚げ、三宅坂の三叉路の付近で参謀本部・陸軍省方面の警戒任務に当る。
その後、翌日27日正午まで同所(三宅坂三叉路)にて警戒を続け、正午以降は新国会議事堂(現在の議事堂で当時は未完成)に終結し、夜に入って赤坂の料亭「幸楽」に移動、宿営する。
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鈴木侍従長官邸正門。当時とほぼ同じ構え。

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同上。正門前広場。安藤大尉の指揮する声が聞こえてきそうだ。

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(左)昭和11年2月28日付の2・26事件を伝える大阪朝日新聞。(右)鈴木侍従長の29日付病状。
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(左)侍従長の治療経過を伝える昭和11年3月22日付東京朝日新聞。(右)侍従長邸周辺見取り図。
鈴木侍従長(予備役海軍大将)は、記事にあるように直ちに救護を受け、一命を取りとめる。主治医と輸血男の話は記事を参照(「鈴木貫太郎自伝」1997年刊には更に信じられないような偶然や秘話が語られている)。襲撃時に侍従長の傍らにいた妻(たか)が、これ以上の危害は無用と懇願したため安藤大尉は敬礼をし(兵はガシャと軍靴をそろえ捧げ銃)退去している。トドメを回避したのは、安藤大尉と侍従長は過去に面識があり、侍従長の識見を知っていたためだともいわれている(侍従長の書まで頂戴している)。
その後、鈴木貫太郎侍従長は、昭和20年4月7日に小磯内閣を後継し、内閣総理大臣に就任。同年8月15日正午の天皇詔勅放送と同時に内閣総辞職する。

参考・抜粋 「2・26事件研究資料U」松本清張・藤井康栄編・文藝春秋1986年刊
リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監・私邸襲撃(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
posted by y.s at 20:29| Comment(0) | 東京北西部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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