この第1師団司令部内に置かれた師団軍法会議で2・26事件に多大な影響を及ぼした皇道派の相沢三郎中佐の公判が執り行われました。第1師団司令部跡には、現在その痕跡を留めるものは標柱1本も残していない。
昭和10年
4月13日 歩41聯隊(福山)の相沢三郎中佐、借財整理の為、不動産(1万3千4百円)を手放す。
7月15日 三長官会議により真崎教育総監罷免。
7月17日 相沢三郎中佐、3日間の休暇で正午過ぎに福山を出発し上京。
7月20日 相沢三郎中佐、軍務局長を訪問。真崎大将の罷免問題を糾弾し、辞職勧告。「私と共に死して貰えぬか」と迫る。(永田軍務局長との第1回目面会)
7月21日 相沢三郎中佐、午後6時に帰隊。
8月1日 相沢三郎中佐、台湾赴任を知る。
8月9日 相沢三郎中佐、福山の連隊を出発。大阪で下車し東久邇師団長訪問。伊勢神宮も参拝。
8月11日 相沢三郎中佐、晩より渋谷区千駄ヶ谷の西田税宅に泊す。
8月12日 午前9時30分に陸軍省整備局長室で山岡中将に面会。午前9時45分頃 相沢三郎中佐は軍務局長室で東京憲兵隊長と会談中の永田鉄山少将を軍刀で斬殺。午前11時30分死亡(死亡診断書)。後の相沢裁判で死亡時刻が問題に。死亡後の午後になってからの中将への進級上奏疑惑。
夕方 磯部が西田宅を出て新宿に帰る。林銑十郎陸相辞任し川島義之が後任に。翌日の新聞各紙には陸軍省の規制で相沢三郎中佐の名は公表されず「某隊付某中佐」と発表。また「危篤」の文字が午後の段階まで使用され続けている。
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12月 歩1聯隊附の香田大尉が第1旅団旅団長附副官に転じる。旅団長は佐藤正三郎少将(翌年1月開始の相沢裁判判士長)。香田大尉は判士側の動静を察知に連絡することになる。
昭和11年
1月28日 午前10時 第1師団司令部内法廷で第1回公判(判士長は佐藤正三郎少将=皇道派寄り)。
早朝より近くの赤坂憲兵分隊から憲兵30名以上が師団の内外を警備。傍聴希望者は午前9時の締め切りまでに2百数十名が集まり抽選に(一般25名)。被告相沢中佐は渋谷の東京衛戍刑務所から午前9時半に司令部裏門に到着。特別傍聴人席には小栗警視総監ら百名。法官席の後ろの椅子席には堀第1師団長、香椎東京警備司令官(2・26事件の戒厳司令官)、山下奉文調査部長、大山法務部長らが列席。公判では相沢中佐の発言が許可され、独演会状態に。
夜、龍土軒で第1回目の会合(当主2代目・文人の出入りは初代の頃)。公判を傍聴した渋川善助より歩1・歩3の中・少尉12〜3名がその報告を聞く。
この龍土軒で皇道派青年将校は度重ねて会合を持ち、対策などを協議している。2階の20畳ほどの洋間と6畳の部屋を独占して会合に使用していた。
第2回公判
相沢中佐は時局を演説後に軍務局長の斬殺場面を詳細に話し始めている。「中央廊下を通り迷わず軍務局長室の前に来ました。二人の軍人が軍務局長と会話しているのが衝立を透かして見えました。自分は抜刀して永田閣下の右から襲った・・・」。相沢中佐は指を負傷したため医事課の部屋に入ろうとした時に担架で運ばれてゆく人を見て述懐する。「自分は永田閣下を殺しそこねたと感じ、かって戸山学校で剣術を担任していた自分が一刀両断に出来なかったのを恥ずかしいと感じました」。
2月1日 第3回公判
午前10時25分開廷 相沢中佐は斬殺の意図を聞かれ新聞の大見出しとなった言葉を述べている。「永田鉄山中将は悪魔の総司令部」
2月4日 第4回公判
午前10時04分開廷 真崎教育総監更迭の事情について問われると、相沢中佐は「南、林閣下が元老、重臣、官僚、財閥等と共に背景となり、永田閣下にやらせたと聞いていました。」
夜、龍土軒で第2回目の会合。2・26事件の中心メンバーが参加してくる。
2月6日 第5回公判
午前10時05分開廷 島田検察官による訊問。北一輝著「日本改造法案」を何故4冊も持っているのか、他人にやるつもりだったのかの問いに相沢中佐は「貰ったから持っていたのです。」 ここで鵜沢総明弁護人(貴族院議員・政友会顧問)から「相沢は村中が書いた総監更迭事情を深く信じ、その信じた点をさらに述べるつもりだが公開の席では述べられぬと思う。」と非公開なら述べると示唆。
2月8日 夜、龍土軒で第3回目の会合。参加少なく5名。香田大尉の他は村中ら民間メンバーのみ。
2月12日 第6回公判
午前10時08分開廷 開廷直後から非公開公判に。 傍聴人125名を退廷させて午前10時30分に再開。内容伝わらず。証人出廷が伝えられるのは橋本虎之助近衛師団長(相沢事件当時の陸軍次官)。橋本は永田軍務局長の元老・重臣らとの関係(結託)を否定している。また10月事件の処理での永田中将の裏工作も認知してないと否定。教育総監罷免を決定した三長官会議において真崎大将本人が最後まで同意しなかったことも証言(橋本の残した覚書)。この三長官会議で林陸相は真崎免職に強硬であり、その陸相の後押しをしたのが渡辺錠太郎参議官。真崎罷免後に皇道派の怪文書に渡辺錠太郎参議官攻撃が増加し襲撃目標になってゆく。
*真崎免職当時の陸軍三長官会議=陸軍大臣(林)・参謀総長(閑院宮載仁)・教育総監(真崎)・・罷免の多数決2対1で可決。閑院宮が真崎罷免の主唱者であり、その身代わりとなり襲撃を受けたのが渡辺錠太郎教育総監といわれる。
夜、龍土軒で歩3の安藤輝三大尉の申し込みで第4回目の会合。歩1・歩3から皇道派将校17名参加。憲兵隊報告では「相沢事件は全軍の負うべき責任なるを以ってこの機会を利用し皇軍の絶対的統制を計るの協議の如し」。急進派の栗原が20分で中座したのがこの会合。法廷闘争派は村中・西田・渋川・亀川ら。21時半に散会するが急進派の安藤と磯部、公判闘争派の村中の3名が残り約1時間激論。龍土軒での会合はこの日が最後で以降は部隊内将校室や個人宅などで行われ情報漏えいに敏感になり警戒している。
2月17日 第7回公判
憲兵の非常警戒の中で非公開公判に。林銑十郎元陸相(現軍事参議官)を証人喚問。連続の非公開公判は公判闘争派の西田・村中らに挫折感をもたらし、次回の真崎喚問も非公開が予想され絶望感にも包まれる。憲兵司令部作成報告では「何等かの方法により之を打開せんとする焦燥的気運が醸しだされてきた」。村中が態度を急変させて武力実行派に転じる(2月19日夜の駒場の栗原宅での実行打ち合わせの中枢メンバー会合に参加)。
2月20日 第8回公判
昨年12月から準備命令のあった第1師団の満州派遣が正式決定(臨参令第48号)。予定時期は5月上旬。結果的に急進派将校ごとそっくり満州に移駐することに。
夜、西田宅で香田・安藤・村中・渋川らが実行協議。
2月25日 第9回公判 軍事参議官の真崎大将が証人出廷。
2月26日 午前5時 皇道派青年将校指揮の各部隊が目標に突入開始。
<2・26事件を受け第1師団軍法会議では一部判士の更迭が行われ、審理を更新し、4月22日より5回の非公開公判を重ねる>
5月7日 第1師団司令部内法廷で相沢三郎被告に死刑判決。
5月8日 相沢中佐が陸軍高等軍法会議に上告。
5月9日 第1師団が満州に移動開始。
6月20日 相沢中佐の上告棄却。
7月3日 早朝 相沢三郎中佐の死刑執行。
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2・26事件リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町 鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/342058218.html
「四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343167821.html
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