2013年03月18日

市谷柳町 近藤勇道場・試衛館跡

子母澤寛の「新選組始末記」(中公文庫版)の第1章「近藤勇(いさみ)の道場」(冒頭のP19より)・・・<近藤勇の道場は、小石川小日向柳町の坂の上にあった。養父の周助邦武は、なかなか使った人だが、すでに七十に近い老体で、名前も周斎と改め、言わば大先生として、時たま道場へ若い者の稽古を見に出る位のもので、自ら竹刀(しない)を手にするような事は無くなっていた。道場は三間に四間の稽古場と、外に住居がついて試衛館といっていた。流儀は天然理心流。武州三多摩に育った剣法で、江戸には余りはやらなかったが、それでもこの道場には、毎日五十名から六十名の門弟が稽古にやって来る。>
続けて塾頭・師範代が沖田総司であること、土方歳三や井上源三郎、藤堂平助、山南敬介の名が紹介されています。
永倉新八(新選組の生き残りで、晩年の大正2年に懐旧談が小樽新聞に連載開始・私家本出版は昭和2年)の「新撰組顛末記」(新人物文庫版)のP24にも、子母澤寛に参考にされたのとほぼ同様の文言の一節が・・上記の門人紹介にさらに原田左之助の名も含まれている。
また資料によって道場位置の紹介は様々だが、ほぼ下の地図の赤丸で記入した周囲に限定されています。「市谷甲良町20番」と住所記載した資料には<近藤周助は天然理心流の三代目を継ぎ、江戸へ出て1839年頃に、市谷柳町甲良屋敷西門に試衛館を開いた>と紹介。さらに<上石原村の豪農の三男・宮川勝太を養子にし、後に天然理心流四代目を継がせた、それが近藤勇昌宜>。宜の文字については子母澤寛がこだわりを持って強調しています・・「宣」を使う者がいるが間違いだと。永倉新八が建立した碑文では逆さまにして「宜昌」となっているとも指摘しています。近藤周助はその後、隠居して四谷舟坂横丁(四谷3丁目から北の舟町に通じる路地)に居住するが、慶応3年に76歳で死去。養子の近藤勇の斬首(慶応4年)はもちろん知る由もなかったのです。
甲良屋敷の地名は明治2年に、市谷甲良町と改称されます。また別の資料では道場位置を「市谷甲良町1番」と紹介されてますが住居表示の変更で旧20番=現1番。市谷甲良町(旧20番)と市谷柳町(旧21番)にまたがって甲良屋敷西門前に「試衛館」が存在したことは間違いないようです。このT字路の脇の石段下の古い稲荷まで含めた敷地に住居と道場(約30畳ほど)を構え、後に新選組の中心メンバーとなる面々が剣術の稽古に汗していたのです。
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大久保通りの歩道から路地奥・・ゆるい坂上が試衛館跡(左右とも同じ方向から)
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試衛館跡柱は市谷柳町側の稲荷社の手前に・・江戸末期から傾斜地だと思われるので(建物は建てにくい)道場位置はマンション(コスモ市ヶ谷)のT字路西角側付近だと推測・・敷地は100坪ほど・平屋建て・道場は約30畳・他に隠居部屋・居候用の部屋・客間・近藤勇の書斎など
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右の地図で赤〇をつけたマンション角・・表示板があるこの場所が道場の横っ腹(!?)

*参考資料・書籍は上記2冊のほか大判の辞典類・「幕末維新人物百話」など
*新選組リンク
「京都 壬生村遊女屋(壬生寺・新選組)」http://zassha.seesaa.net/article/318429007.html

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posted by t.z at 01:41| Comment(0) | 東京北西部tokyo-northwest | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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