続けて塾頭・師範代が沖田総司であること、土方歳三や井上源三郎、藤堂平助、山南敬介の名が紹介されています。
永倉新八(新選組の生き残りで、晩年の大正2年に懐旧談が小樽新聞に連載開始・私家本出版は昭和2年)の「新撰組顛末記」(新人物文庫版)のP24にも、子母澤寛に参考にされたのとほぼ同様の文言の一節が・・上記の門人紹介にさらに原田左之助の名も含まれている。
また資料によって道場位置の紹介は様々だが、ほぼ下の地図の赤丸で記入した周囲に限定されています。「市谷甲良町20番」と住所記載した資料には<近藤周助は天然理心流の三代目を継ぎ、江戸へ出て1839年頃に、市谷柳町甲良屋敷西門に試衛館を開いた>と紹介。さらに<上石原村の豪農の三男・宮川勝太を養子にし、後に天然理心流四代目を継がせた、それが近藤勇昌宜>。宜の文字については子母澤寛がこだわりを持って強調しています・・「宣」を使う者がいるが間違いだと。永倉新八が建立した碑文では逆さまにして「宜昌」となっているとも指摘しています。近藤周助はその後、隠居して四谷舟坂横丁(四谷3丁目から北の舟町に通じる路地)に居住するが、慶応3年に76歳で死去。養子の近藤勇の斬首(慶応4年)はもちろん知る由もなかったのです。
甲良屋敷の地名は明治2年に、市谷甲良町と改称されます。また別の資料では道場位置を「市谷甲良町1番」と紹介されてますが住居表示の変更で旧20番=現1番。市谷甲良町(旧20番)と市谷柳町(旧21番)にまたがって甲良屋敷西門前に「試衛館」が存在したことは間違いないようです。このT字路の脇の石段下の古い稲荷まで含めた敷地に住居と道場(約30畳ほど)を構え、後に新選組の中心メンバーとなる面々が剣術の稽古に汗していたのです。
| |
| | |
| |
*参考資料・書籍は上記2冊のほか大判の辞典類・「幕末維新人物百話」など
*新選組リンク
「京都 壬生村遊女屋(壬生寺・新選組)」http://zassha.seesaa.net/article/318429007.html
【関連する記事】
- 渋谷 第10回渋谷ファッションウイーク・SHIBUYA RUNWAY
- 表参道 イッセイ・ミヤケ<FACE>展
- 渋谷 渋谷ストリームshibuya streamオープン
- 早稲田 三朝庵(閉店) 井伏鱒二「大正七・八・九年ごろ」より
- 原宿表参道 FR2ブティック梅 ニューオープン
- 原宿 Stephen Powersのグラフティストリートアート
- 世田谷・経堂 経堂病院 太宰治入院先(昭和10年)
- 南青山・青山霊園 中江兆民の墓 幸徳秋水「兆民先生」より
- 青山キラー通り(神宮前3) キース・ヘリングの壁画解体
- 渋谷・百軒店 文紀堂書店とストリップ道頓堀劇場 安西水丸「東京美女散歩」より
- 元赤坂 紀の國坂 小泉八雲 「怪談」(「むじな」)より
- 四谷 外濠公園野球場 井上ひさし「ナイン」より
- 渋谷宇田川町 ラブホ・オリエント 「荒木陽子全愛情集」より
- 渋谷 青学会館 荒木経惟・陽子夫妻の挙式会場
- 成城 横尾忠則アトリエ 「千夜一夜日記」より
- 目黒緑ヶ丘 三島由紀夫旧居跡 瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」より
- 目白 学習院 三島由紀夫「春の雪」(豊饒の海・第一巻)より
- 成城 こばやし動物病院と成城外科整形外科 横尾忠則「千夜一夜日記」より
- 江古田 日大芸術学部+ミス日芸2017 安西水丸「東京美女散歩」より
- 高円寺 駅前ガ噴水ガ広場ガ 園子温「孤独な怪獣」より

