2013年08月07日

京都 新夷町 白梅図子遊郭跡

京都御所の東側100m強という非常に近い場所にかって「白梅図子(しらうめずし)」と称された廓(くるわ)が存在していました。明治初期になり、その廓とすぐ東側の御土居がともに姿を消し、現在では痕跡すら残していません。
この遊郭の発祥は、元禄年間の京都所司代屋敷(二条城北側)の拡張普請によるもので、住民は幕府の強制退去命令を受け代替地であるこの地(新夷町)に移住しました。新夷町(しんえびすちょう)という町名は、明治2年2月の合併により生まれた新町名であり、それまでは新松屋町(元禄年間の移住)と夷町(安永年間の移住)の旧町名に分かれており、それぞれの頭の一文字を合わせて「新夷町」になったのです。
何故に遊郭が誕生したかは・・・移転費用もままならない住民は、生計の為に「煮売茶屋」の開業を幕府に申請し許され、次々と煮売茶屋(=遊女屋)を建てたのです。
またこの地は黒谷に移転した真如堂の跡地であり、その空地をあてがったということです・・地図の京極小学校の北側にその名残りが町名となっています。
kyoto siraume01.JPG kyoto siraume02.JPG
<下の地図参照>本禅寺北門前のT字路を西側(本禅寺北通)から撮影 右写真は北門を背にしての白梅図子遊郭のメーンストリート・・わずか70mほどの距離ですが、かっては左右に30軒を下らない茶屋がぎっしりと軒を連ねていましたが・・現在は全く面影は無く石碑の1本も見あたりません 
kyoto siraume03.JPG   kyoto siraume04.JPG
左写真は北からの白梅図子遊郭跡(右上の逆方向から)・・正面奥に本禅寺北門 右写真は遊郭の出口(石薬師通)・・大猪熊町の古い住居表示・・石薬師通下ルが新夷町です
           kyoto siraume05.jpg
南に300m弱ほど下ったところの廬山寺の墓地に残る御土居(秀吉の築いた土塁)の位置から類推して、白梅図子遊郭の東裏側が二階建てほどの高さの土塁があったものと思われます。江戸時代末期に最盛期を迎えたこの遊郭は洛中にあったのであり、もっとも御所に近い(メーンストリートから100m強)遊郭であり、夜更の女郎らの嬌声は禁裏に届いていたのでは・・・

**参照 「日本花街史」1990年


【関連する記事】
posted by t.z at 23:43| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。