()内は引用した新潮文庫のページです。
(12頁)<神戸の女学院の生徒で、生れは備中の新見町で、渠(読み=かれ)の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情を以て充された一通の手紙を受取ったのはその頃であった。>
*神戸の女学院=西宮市岡田山の神戸女学院大学の前身であるミッションスクール
(32頁)<坂の上から右に折れて、市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞としていた。大きい古い欅の樹と松の樹とが蔽い冠さって、左の隅に珊瑚樹の大きいのが繁っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如その珊瑚樹の蔭に身を躱して、その根本の地上に身を横えた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。>
(33頁)<時雄は立上って歩き出した。もう全く夜になった。境内の処々に立てられた硝子燈は光を放って、その表面の常夜燈という三字がはっきり見える。この常夜燈という三字、これを見てかれは胸を衝いた。この三字をかれは曽て深い懊悩を以て見たことは無いだろうか。今の細君が大きい桃割に結って、このすぐ下の家に娘で居た時、渠(読み=かれ)はその微かな琴の音の髣髴(読み=ほうふつ)をだに得たいと思ってよくこの八幡の高台に登った。かの女を得なければ寧そ南洋の植民地に漂泊しようというほどの熱烈な心を抱いて、華表(読み=とりい)、長い石階、社殿、俳句の懸行燈、この常夜燈の三字にはよく見入って物を思ったものだ。その下には依然たる家屋、電車の轟こそおりおり寂寞を破って通るが、その妻の実家の窓には昔と同じように、明かに燈の光が輝いていた。何たる節操なき心ぞ、僅かに八年の年月を閲(読み=けみ)したばかりであるのに、こうも変ろうとは誰が思おう。その桃割姿を丸髷姿(読み=まるまげ)にして、楽しく暮したその生活がどうしてこういう荒涼たる生活に変って、どうしてこういう新しい恋を感ずるようになったか。>
(87〜88頁)<別れた後そのままにして置いた二階に上った。懐かしさ、恋しさの余り、微かに残ったその人の面影を偲ぼうと思ったのである。武蔵野の寒い風の盛に吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音が凄じく聞えた。別れた日のように東の窓の雨戸を一枚明けると、光線は流るるように射し込んだ。机、本箱、罎(読み=びん)、紅皿、依然として元のままで、恋しい人はいつもの様に学校に行っているのではないかと思われる。時雄は机の抽斗(読み=ひきだし)を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂いを嗅いだ。暫くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団――萌黄唐草(読み=もえぎからくさ)の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟の天鵞絨(読み=びろうど)の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。薄暗い一室、戸外には風が吹暴れていた。>
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田山花袋・超略年譜
明治4年(旧暦) 栃木県館林町生まれ
明治32年 2月9日 27才で詩人・太田玉茗(ぎょくめい)の妹リサ(18歳)と結婚
明治36年 6月頃 「蒲団」のモデル(主人公・横山芳子)岡田美知代との文通始まる
明治37年 2月末 岡田美知代19歳・・父親に伴われ上京 この年、花袋は32歳で2男1女の父親
妻リサの姉の住居(土手三番町)に下宿させる
美知代の恋人(京都同志社)が追って上京・・花袋は山伏町の自宅に美知代を移す
明治39年 代々木3-9に移転
明治40年 9月 「蒲団」発表(「新小説」に)
昭和5年 5月13日 代々木3-9の自宅で死去 58歳 多摩墓地に埋葬 墓石に島崎藤村の筆刻
*年譜参照「田山花袋 作家の自伝25」日本図書センター
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