襲撃した水戸・薩摩浪士18名(水戸17名・薩摩1名)の内、桜田門前に上屋敷を構える松平中務大輔邸の塀際で待ち構えた8名(左翼隊=彦根藩の行列に対して。薩摩の有村や短銃所持の黒沢の隊)の組に配された広木松之介は、襲撃指図者の関鉄之介ら15名が次々と生命を絶ってゆく中、現場から逃亡に成功し、長期間にわたり行方不明となった3名の内の一人であった。
襲撃直後の捜索網から逃れ出た広木松之介(水戸藩・評定所官吏だった)は、水戸の生家に一旦は立ち寄ったものの、すぐさま離脱。以降は行方知れずに。
翌年(文久元年)の12月になって、広木が能登で捕縛との報が江戸に届く。日本橋・伝馬町の牢屋敷に護送されたのだが、吟味を受ける間もなく、絶食のため衰弱死。だが後日になって、獄死したのは別人であることが判明する(広木の印形を持つ水戸訛りの水戸藩領の郷士・後藤哲之介であった)。広木は僧形を装って新潟に潜行した折に、新潟で後藤と出会い意気投合。素性を明かした上で逃走資金の提供を受け、その謝礼として印形(いんぎょう=はんこ)を渡していたのだ。
その後、広木は諸国(加賀国などに潜伏)を巡って相模国鎌倉の上行寺に寄食。この寺で同志の多くが死亡していることを知り絶望する。桜田門外ノ変の2年後(文久2年)の3月3日夜、襲撃の日を選んで上行寺(境内南側付近)で割腹自決をして果てる。享年25歳。
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*広木松之介の墓は水戸・妙雲寺にある。又、顕彰碑・子孫の名入り卒塔婆(そとうば)には「松之助」と「助」の字があてられているが、「介」に統一した。
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参考 「桜田門外ノ変」(上・下)吉村昭 新潮文庫
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