2013年09月27日

山梨・田野 武田家滅亡の地 「天目山の雲」井上靖より

甲斐武田氏(武田勝頼)が、織田・徳川軍に滅亡に追い込まれる数ヶ月を、井上靖の短編小説「天目山の雲」の後半部分から抜粋して紹介する。短編「天目山の雲」は、1953年に文芸誌に発表された後、短編集「異域の人」(6篇収録・角川文庫)に収めらたが絶版に。角川文庫から再版された短編集「天目山の雲」(6篇を含む全12篇収録・1975年刊)に表題作として再び収められた。
<<勝頼は、半造りではあるが、新府の城で最後の一戦を試みようと思った。ところが三月三日の朝、最後の頼みとしていた高遠城の落城が伝えられた。三月三日に高遠城は、信忠の五万の大軍に包囲され、守将の仁科五郎盛信以下、城中の婦女小童に至るまで、よく防ぎ闘い、全員華々しく討死したのであった。高遠の城が落ちれば、最早これまでと、勝頼は、時を移さず、その日、去年十二月末に行列の装い美々しく移った許りの新府の城に火を放って、ここを退去することにした。主従は男女併せて僅か二百人を数えるだけであった。>>「天目山の雲」P114より
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甲斐武田氏の守神・武田八幡宮参道付近から新府城址を望む。周囲は武田氏初代・武田信義(のぶよし)の館跡。1582年(天正10年)3月3日朝、武田勝頼は新府城廃棄を命じ、城内の館に火を放つ。先立つ2月19日、勝頼の室・九条夫人(北条氏康娘19歳)は、武田八幡宮に武田家安泰の祈願文を奉納している(残存=県指定有形文化財)。写真の左後方に武田八幡宮がある。 
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(左写真)小山田信茂の居城だった岩殿城 (右写真)JR中央線大月駅ホームに置かれた岩殿城案内板
<<勝頼は小山田信茂の勧めで、彼の居城である岩殿が要害の地であることを知って、そこへ退くことにした。漸く火の手が高く上ろうとしている城を出た時、勝頼はまだこの時再起を諦めてはいなかった。(略)勝頼は駒飼を出発して、岩殿へ向おうとしたが、意外にも笹子には関が設けられてあり、鉄砲を打ちかけられ、この時、初めて、勝頼は小山田信茂に騙されたことをしった。>>「天目山の雲」P115より

ここで、甲斐・田野で武田家(武田勝頼・信勝)が滅亡する直前1ヶ月余の経過を時系列で略記しておく。
1581年(天正9年)
 12月24日 武田勝頼は、古府中・躑躅ヶ崎館から釜無川の北岸に切立つ七里岩の上に築いた新府城(現・韮崎市)に移る。(月日は「理慶尼記」より・「甲陽軍鑑」では1月)
1582年(天正10年)
 2月1日 勝頼の義兄・木曽義政(昌)が武田家から離反し織田方に内通する。(その日中に信長に使いが走る) 
 2月2日 武田勝頼、木曽の謀反を知り新府城を発し、諏訪・上原城に1万5千の人数で陣をはる。
 2月3日 信長、信州・甲斐への諸口より乱入を下知する。三位中将(織田)信忠軍は、伊那口、徳川家康は駿河口、北条氏政は関東口、飛騨口からは金森五郎八を大将にした軍を配す。ただちに森勝蔵らの先陣が木曽口・岩村口から武田領に侵攻開始。
 2月9日 信長、武田氏討伐の全軍への(戦略配置)指図書を発する。
 2月14日 先陣が木曽峠を越える。
 2月16日 木曽谷への要地である鳥居峠で戦闘始まる。
 2月18日 徳川家康軍、浜松を出陣。
 2月19日 勝頼の妻(九条夫人)が、武田八幡宮(韮崎市神山町北宮地・新府城の南約4km)に願文を奉じる。 
 2月25日 駿河国江尻(現在の清水市江尻)で遠州口の押さえを担っていた武田家親類衆の穴山信君(梅雪)が、家康の調略によって寝返る。梅雪は夜、雨のなか古府中に人質になっている妻子を脱出させる。穴山信君は、勝頼の姉(見性院)の夫であった。
 2月28日 武田勝頼、諏訪の上原城を引き払い新府城に帰る。新府城内で軍議。新府籠城・上州吾妻の真田昌幸領への転出・小山田信茂の岩殿城籠城の各案が討議される
 3月1日 穴山信君が江尻城を徳川家康勢に開城。三位中将信忠は、飯嶋より天竜川を越え伊那・高遠城を包囲。
 3月2日 未明から織田勢が高遠城に取り掛かる。織田信忠自ら武具を持って斬り入る。仁科盛信以下城兵四百余名(=首級数)は全員討死に。武田方の諏訪勝右衛門の女房が城中で男勝りの奮戦。「信長公記」に特記される。
 3月3日朝 勝頼は新府城廃棄を命じ、城内に放火。同時に人質も多数焼き殺す。三位中将信忠軍は諏訪表に至り各所に放火。家康は穴山信君を案内人として、駿河から甲斐河内領に乱入。この日の武田方のパニック状態を「信長公記」は克明に記している。夜 勝頼一行は古府中を通り抜け、勝沼の大善寺に宿泊。(「信長公記」には「落人の哀れ」の語有り)
 3月4日 勝頼、駒飼に移動。
 3月5日 信長が出陣。翌日、高遠城主仁科盛信の首を検める。
 3月7日 三位中将信忠が、諏訪より古府中(甲府)に陣を進める。一条蔵人邸に宿陣。武田一門の捜索・成敗を命令。岩殿城の小山田信茂が逆心し、勝頼一行の郡内への通過を阻止する。「武田三代軍記」に<小山田、鶴瀬から郡内の間に逆茂木(さかもぎ)を引き、城戸を構う。>の記述。
 3月8日 信長、岐阜より犬山に着陣。
 3月10日 勝頼の使番が笹子峠を偵察。小山田配下が発砲する。勝頼一行の駒飼(東山梨郡大和村)の山中への逃亡を滝川一益が知り捜索を開始。勝頼は天目山栖雲寺を死地と定めて移動。田子(田野)の平屋敷に居陣するところを、滝川勢に発見される。
 3月11日 朝、滝川勢の先陣に包囲され、勝頼親子以下41人の侍分と50人の女房衆、すべて自刃討死する(巳刻=午前10時頃)。勝頼親子の首級は、三位中将信忠の元に差し出され、直ちに信長のもとに進上される。信長は岩村に着陣。
 3月14日 信長は浪合(長野県下伊那郡)の陣で勝頼親子の首を検分。 
 3月16日 飯田の陣にて、信長のもとに勝頼が最後に差していた刀と仁科五郎の芦毛馬などが差し出される。
     *「信長公記」角川文庫版から年譜作成
<<勝頼は天目山に入ろうとした。勝頼が最後に選んだ拠点であった。併し、村人は一団となって、山上から鉄砲を放って、勝頼の入るのを拒んだ。勝頼は天目山で再起の機会を掴むつもりだったが、それも許されなかった。この時勝頼につき従う者は四十四人になっていた。田野という山中の部落に入った。そこの平屋敷に名ばかりの柵を造って休憩した。三月十二日の午(ひる)下りであった。織田方の滝川一益(かずます)の部隊が山中を捜索していた。その気配を知って、勝頼はこの時初めて自刃を決意した。>>「天目山の雲」P116より

以下の写真は、勝頼主従が自刃或は討死した田子(田野)の平屋敷。甲斐武田氏滅亡の地。寺院は後に家康の命によって建立された。
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山門は、1779年(安永8年)に再建されたもので景徳院では最も古い伽藍といわれる。
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景徳院本堂前の旗竪松。武田家累代の重宝旗(日の丸御旗=日本国旗の元になった)を世子である信勝の元服の折りに竪(た)てかけたことからと伝わる。
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信長が本能寺に倒れた後、徳川家康は甲斐国を手中に収め、勝頼が自害した最期の地に、勝頼親子の菩提を弔うため寺院を建立する。甲斐・中山広厳院の僧・拈橋(ねんきょう)に命じ、1588年(天正16年)に創建した田野寺がそれに該当する。後に寺名を勝頼の戒名である景徳院に改めている。田野寺を開いた僧・拈橋は、戦闘が終った直後に田野の山中に入り、討たれた武田家臣に戒名をつけて回ったと伝わる。(左写真)本堂の方向からの甲将殿。甲将殿には勝頼・信勝・九条夫人の三体の坐像と従者の位牌が祀ってある。甲将殿の左側(裏手)に勝頼主従の墓が見える。(右写真)甲将殿の正面。武田菱に注目。
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(左写真)中央が勝頼墓・右奥側が九条夫人の墓・左手前が信勝墓。その外両側に殉難従者を祀っている。この墓は、1775年(安永4年)に設けられたと伝えられていたが、1779年(安永8年)3月15日から21日までの7日間に執り行われた「200年遠忌」の際に建立されたものと判明。(県指定史跡=昭和33年6月指定) (右写真)発掘調査の説明板。
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(左右写真)没頭地蔵尊。後年、勝頼親子を偲び、地元の人々により首のない三体の地蔵尊が置かれた。

<<敵が間近に迫った気配を察して、勝頼は己が室の介錯を土屋に頼んだ。勝頼の室は法華経五ノ巻を誦し、誦し終ると小刀を口に含み前に倒れた。土屋が刀を降しかねている間に、勝頼自ら介錯した。勝頼の室は十九歳であった。(略)間もなく、山下から攻上って来る敵方の声が聞えて来た。勝頼、信勝、土屋三兄弟を初めとして、三十数人の武田勢は最後の合戦をし、敵の最初の攻撃を撃退、次の攻撃を仕掛けられるまでの僅かな時間をぬすんで、勝頼は、「土屋、敷皮を!」と言った。土屋は言われるままに敷皮を直した。勝頼はその上に座った。その背後に土屋は立った。勝頼は三十七歳であった。信勝の介錯は弟の土屋が承った。信勝は十六歳であった。>>「天目山の雲」P116より

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(左右写真)武田勝頼の生害石(享年37歳)。「信長公記」の記述は<歴々討死相伴の衆、武田四郎勝頼、武田太郎信勝、・・>とある。文字通り討死と取ってよいのだが、江戸期に成立した軍記(物語)は混乱状態だ。討死説を採る「甲陽軍艦」(江戸初期成立)や「武田三代軍記」(正徳5年成立)、自刃説は「理慶尼記」「甲乱記」(成立不明・刊行は正保3年)等である。また「甲乱記」の九条夫人の自害の様子は<腹に脇差を突き立て>と記している。
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(左右写真)九条夫人(北条氏康の六女・享年19歳)の生害石。勝頼と信勝の説明板が読めたことから、九条夫人のものと判明。 
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(左右写真)嫡男・信勝(享年16歳)の生害石(実母は死別した織田信長の養女・遠山夫人。信の一字は信長から)
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九条夫人の辞世の句碑 <黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒> 小田原の実父にすがることなく勝頼とともにこの地にて果てた。

甲州市塩山の武田氏の祈願所である雲峰寺に、日の丸の御旗・孫子の旗(風林火山)・諏訪神号旗などの武田家家宝が、家臣に託され運び込まれた。現在、雲峰寺の寺宝として宝物殿に展示されており見学可能。月曜休館。
*雲峰寺宝物殿HP http://unpoji.ko-shu.jp/treasure.html

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(左写真)「理慶尼記」の写しが景徳院境内に置かれている。江戸後期1809年に勝沼で発見された<史料>(?)。理慶尼(りけいに)は武田信玄の従兄妹(いとこ)で、1611年(慶長16年)に82歳で没(墓は田野に近い大善寺にある)。山深い渓谷の崖道での戦闘を尼が見聞していることが疑われ、価値は疑問視されている。勝頼の府中から新府城への移転の日付けは、この書では12月24日と記されている(江戸期に成立した甲陽軍鑑には1月)。(右写真)田野から南方(大善寺方向)を見る。
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田野から県道218号を日川渓谷沿いに遡った道路沿いに<土屋惣蔵片手切碑>が置かれている。勝頼一行は、田野よりさらに山中の天目山栖雲寺を目指したが、滝川左近(一益)の軍勢に阻まれ退却する。土屋惣蔵昌恒が殿(しんがり)を務め、崖道の狭所で片手で藤蔓につかまりながら もう片方の手で長刀を振るって奮戦する。討たれた滝川勢の血で日川は赤く染ったという伝説が残る。県道開通以前は、説明板の写真のように細い崖道であったようだ。

勝頼親子の首級の行方を追ってみる。
3月11日、勝頼親子の首級は、三位中将信忠の元に差し出され、直ちに信長のもとに進上。信長は岩村に着陣。
3月13日 信長、岩村から根羽村(穪羽根)へ移陣。は浪合の陣で勝頼親子の首を検分。 
3月14日 信長は平谷を越え、浪合(長野県下伊那郡)に陣。勝頼親子の首を検分。矢部善七郎が飯田へ首級を運ぶ。 
3月15日 信長 飯田へ陣を移す。勝頼親子の首を飯田で晒す。
3月16日 飯田の陣にて、信長のもとに勝頼が最後に差していた刀(滝川左近が差出)と仁科五郎の芦毛馬などが差し出される。勝頼親子、武田典廐、仁科五郎盛信の四人の首級、長谷川宗仁によって京都へ運ばれ。後日、六条河原(正面橋の約150m上流付近)で獄門に懸けられる。
<<法泉禅寺の三世・快岳禅師は、京都妙心寺塔頭の玉鳳院の南化和尚(後の定慧円明国師)の助けにより、勝頼の首級(歯髪とも)をもらい受けることに成功する。甲斐の法泉禅寺に持ち帰り、勝頼の首級を葬ろうとするが、当時は法泉禅寺は織田勢の陣所として使われていたため、寺内への首級の持ち込みは困難で、法泉禅寺よりさらに北の山中にあった上帯那の三上家を頼ってゆく。快岳禅師の様子に不審を抱いた織田家の家来衆によって、あやうく首級が見つかりそうになったという。禅師は咄嗟に三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中に首級を隠し、難を逃れたと伝わる。禅師はさらに山奥の大馬籠という栗林の中に仮の庵(信向庵)を建て、首級を守り通す。織田信長が本能寺に倒れた後、法泉禅寺に陣していた織田勢は引き払う。その機会をもって禅師は勝頼の首級を寺に移し、丁重に葬ったという。これが現在、「勝頼公首塚」と呼ばれている。>>法泉禅寺のHPから要約。
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(左右写真)甲府五山・臨済宗妙心寺派法泉禅寺(甲府市和田町)。武田勝頼廟所にある説明板には、勝頼公の首級を塡(うず)めと明記されている。
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     法泉禅寺の武田勝頼の墓。甲府市指定史跡。首塚の脇に山桜が植えられている。
*武田勝頼の菩提寺・甲府五山法泉禅寺 http://www4.nns.ne.jp/pri/hosenji/

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参考(引用)
短編集「天目山の雲」井上靖 角川文庫1975年刊
「信長公記」太田牛一 角川文庫版
posted by y.s at 23:54| Comment(0) | 各地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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