2013年09月28日

上野 唐十郎の下谷万年町の長屋(生家跡)

ダンディスト・・純白のスーツの襟元には血糊り・・右手には海釣り用の竿・・緩めたズボンからのぞく六尺ふんどし・・1983年(昭和58年)1月に決定・発表された第88回芥川賞を「佐川君からの手紙」で受賞した作家・唐十郎に抱いていたイメージです。
選考委員の一人だった安岡章太郎の評は「これは候補作中抜群であり、あらゆる意味で新人ばなれがしている。しかし、それはアタリマエで唐氏の奇才は劇作家として知れ渡っているからだ」・・さらに10年を遡った1970年代前半での劇団「状況劇場」を率いていた唐十郎への評価は・・「アングラ演劇の旗手」「天才劇作家」。今回は、さらに遡って戦前の「下谷万年町」の生家跡に。現在は消滅してしまったこの町名は、唐十郎の小説・戯曲によって知られているのですが・・・何処?
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万年町2丁目15番(旧表示)の唐十郎の生家跡・・正確には木造二階建ての家屋の先に見える白いビル(北側奥の塔屋がある下)の裏手・・以前は手前の長屋が連続して続いていたのですが取り壊されてビルに (右写真)ビルの裏手・・ブロックが積まれたこの位置が唐十郎の生家=長屋の玄関があった跡
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唐十郎の小説「下谷万年町物語」(昭和56年刊)の冒頭に、生家周辺の描写・・<上野駅と鶯谷の真ん中、山の手の谷中から言えば、上野陸橋大橋の下ったところ、そこに下車坂という都電の駅があり、そこから浅草六区に向かって一歩踏みだした辺りに、下谷万年町という変てこな名前の、江戸の頃から屑屋の寝ぐらで有名な長屋があって、ここに二人は住んでいた。>
唐十郎(本名・大鶴義英)は 1940年(昭和15年)2月11日に 九州出身の映画プロデューサーの大鶴日出栄の次男としてこの路地裏で誕生(母は東京出身) (右写真)同じ棟続き(だったと思われる)の長屋の玄関 *大鶴家の位置はこの長屋に撮影当時(2010年)にお住まいの方から「そこだよ」と聞いています 
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昭和19年 空襲が激しくなる直前に大鶴家は福島県大野に疎開 昭和20年 敗戦直後の焼け野原になった上野一帯でぽっこりと焼け残った下谷万年町の長屋に帰りつき 昭和21年 6才の義英少年は下谷区立の坂本小学校に入学 この焼け残った万年町には様々な人種が流れ込み住みつく・・闇屋・置引き屋・家出娘をだますスケコマシ その後にオカマの大群も 異端の道に踏み込む唐十郎の原風景がこの万年町にひろがっていたはず
昭和33年4月 明大文学部演劇学科に入学 演劇に没頭する学生生活をスタート 大学3年時に父親の作品の助監督を務めていた故・若松孝二と出合う(昭和43年公開の若松作品「犯された白衣」に主演) 昭和38年7月 「シチュエーションの会」(状況劇場の前身 昭和39年に改名)を旗上げ公演 万年町の長屋の2階を劇団事務所として使いながら 昭和39年 24才の夏に杉並区西荻窪のアパートに移ることに
(右写真)状況劇場の紅テント公演は新宿花園神社側の拒否にあうなど紆余曲折があったのですが・・現在は「唐組」旗が境内に高く掲げられてます
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この2冊は 数行の引用と巻末の年譜を若干参照 多くは昭和49年秋号「別冊新評 唐十郎の世界」(管理人の愛蔵している雑誌)を参照(ボロボロでアップに耐えられないのです)
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posted by t.z at 23:57| Comment(0) | 東京東南部tokyo-southeast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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