2013年10月10日

深川小松町 伊東甲子太郎(鈴木大蔵)道場跡

鈴木大蔵(おおくら)は常陸国新治郡の出身。1842年(天保13年)に、父親(鈴木専衛門)は仕えていた本堂家の家老と争いを起こして蟄居閉門の処分を受けてしまう。翌年、一家はそろって藩外に寓することに。大蔵8歳の時であった。大蔵は10代で江戸・水戸にて剣術を学び、また学問も修める。1860年(万延元年)頃に、深川小松町に北辰一刀流の道場を構えていた伊東誠一郎の門下に入り、修行の末に北辰一刀流の免許皆伝を受ける。師・誠一郎の臨終に際し、遺言により一人娘「うめ」の婿となり伊東道場の跡継ぎに・・・北辰一刀流・伊東大蔵道場が誕生する。
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(左写真)伊東甲子太郎道場の跡(南側から撮影)・・当時は道路は無く松代藩・真田信濃守の下屋敷と接していた(右写真の左側の樹木が茂る所が真田家下屋敷) 大島川西支流の土手側に道場の玄関があったと思われ 北側の松平家下屋敷の角から小松町の町人地を通り抜けて道場に出入りしていたと想像・・嘉永の尾張屋版切絵図に描かれた道路配置からです
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道場の南東(大島川)側・・手前左右の道路は無く行き止まりだった かってこの道場で剣を学んだことのある新選組副長助勤の藤堂平助が伊東(30歳になっていた)を隊に勧誘するため訪れたのもこの道だろう
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1864年(元冶元年) 藤堂平助に入隊の内諾を与えた伊東大蔵は 10月9日に江戸に着いた局長・近藤勇と市谷甲良町の近藤の道場で会見する 入隊を正式に応諾した上で門下の師範代や友人らを推挙する 10月15日 伊東は道場を閉鎖して妻うめを三田台町に預け 元冶元年の干支(えと)にちなみ 「甲子太郎」(かしたろう)と改名 大森の宿場で実弟・三木三郎を含む同志らと落ち合い東海道を京に向かう 池田屋騒動のあと禁門の変で焼け野原となった京に
 *地図の水色=松代藩(真田家)下屋敷内では佐久間象山が砲術塾を開設しており勝海舟らが塾生でした 後に木挽町(銀座)に移り坂本龍馬らが砲術の講義を受けます 伊東甲子太郎が江戸を旅立つ約3ヶ月前に 佐久間象山は京の三条小橋の近くで斬殺されてます
 *参考 「新選組史跡事典」
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posted by t.z at 23:49| Comment(0) | 東京東南部tokyo-southeast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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