西宮砲台が着工される前年1862年(文久2年)は、薩摩藩による英人殺害(生麦事件)、長州勢(高杉晋作・伊藤博文ら)による品川高台の英国公使館焼き討ち襲撃事件などが相次いで発生し、時代は攘夷の激流に呑み込まれて行きます。11月に幕府は朝廷による攘夷の勅旨に従うことを耐え切れずに決定。年明けを迎えると江戸・横浜市民は対英関係の悪化による(黒船による)艦砲射撃に動揺し不安はピークに。
後年、明治政府の初代総理大臣となった伊藤博文は、この未明の火付け事件に下っ端として参加した事から英国政府からシニカルな「嫌味」を受けることに。
そして1863年(文久3年)3月、幕府は軍艦奉行・勝海舟の実地調査の結果を受けて、海防の一環として西宮の海岸に砲台築造を決定。同年8月3日に着工し、3年後の1866年(慶応2年)の後半に完成。大砲(種類不明)2門を装備し弾薬庫や砲身冷却用の井戸の設備も。完成直後に空砲により2門を試射したところ硝煙が内部に充満したため実用に堪えないことが判明。実戦には使用されないまま明治維新を迎えます。
海岸(南側)からの西宮砲台 出入口は山側(北側)に1箇所のみ (右写真)砲眼は計12箇所 堡塔の基礎には1500本超の松杭(くい)が使用され地盤を固め石造三層の高12m・径17mの円堡を支えてます
西宮駅方向から港沿いの道路を行くと建物等にさえぎられ「何処にあるの?」状態 左写真の案内板が助けに 近寄るまで堡塔は確認できません(右写真)でやっと発見
奥の樹木の手前の土手が西側に残存している防御用土塁 手前の大きな石は堡塔築造の残石(確証無し)(右写真)海岸一帯の説明板(砲台の説明も書かれてます)
*参照 「日本城郭体系12 大阪・兵庫」1981年刊 西宮砲台の項