2013年10月24日

小田原 川崎長太郎 早川観音の文学碑とだるま料理店

川崎長太郎「日没前」より(「抹香町」講談社文芸文庫に収録)
<<夜分は太いローソクの明かりで、原稿用紙へ余念なくペンを走らせ、宿命の如く日の目もみずに生きてきたあぶれ者の心情を吐露するところがあった。何年振りかで人肌恋しく、娼婦のたむろする「抹香町」へ出かけ、ゆきずりな接触を重ねる模様ともなった。物置小屋へ住んで娼婦を買いに行く、軈(やが)て五十歳に近いひとり者の日常をなりふりかまわずあけすけ書き抜く作品は、ものみ高い世間の人眼をひき、私を一寸した流行作家如きに仕上げ・・・・>>
小田原海岸の波打ち際の物置小屋2階で執筆し、時折、抹香町(私娼窟)へ出かけ、早川観音へ日参し、小田原城下で寿司を食べる・・・異才私小説作家・川崎長太郎。
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早川観音(俗称)の傍らに設けられた川崎長太郎文学碑(句碑)(1991年平成3年に5百余人の有志によって建立) <春きたる 海辺のみちで 鳥のまね>と川崎長太郎の句が刻まれている
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また「偽遺書」からの一文も刻まれている<<日に一度は、早川の観音さまに出かけ、おまいりはせず、そこの茶店の縁台に腰をおろし、黄金色の茶をのみ、一文菓子をつまんだ。往復に、ざっと二時間、かけがいのない日課であり、その日その日の色どりだった。>>
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(左写真)早川観音前で似かよった縁台を見かけた・・・右は「川崎長太郎 抹香町 路傍」講談社文芸文庫1997年刊

川崎長太郎 簡略年譜
1901年(明治34年)11月26日 神奈川県足柄下郡小田原町万年3-470番地に生まれる
          家業は箱根温泉の旅館相手の魚商
1917年(大正6年) 県立小田原中学校入学(現・小田原高校)(翌年に退校)
1924年(大正13年) 23才 東京・下戸塚の法栄館に下宿
          徳田秋声・宇野浩二らを識る
1934年(昭和9年) 33才 「道草」刊行 
1935年(昭和10年) 34才 「余熱」ほかの作品で第2回芥川賞候補となる
           本郷に住む
1938年(昭和13年) 37才 小田原・万年町の実家に引き上げる 実家の物置小屋に住む
           近くの遊所(抹香町)に通う
1948年(昭和23年) 47才 「淫売婦」 「偽遺書」発表
1950年(昭和25年) 49才 「捨猫」 「抹香町」 「路傍」など発表
1953年(昭和28年) 52才 「色めくら」 「伊豆の街道」発表、
        この頃 物置小屋に読者の女性の来訪が増える
1954年(昭和29年) 53才 作品集「抹香町」刊行
          小田原・だるま食堂にて出版祝賀会が開催される
1958年(昭和33年) 55才 「消える抹香町」 発表・・・4月 売防法実施される
1985年(昭和60年) 11月6日 肺炎のために小田原市立病院で逝去 享年83才
            墓は静岡県御殿場市の富士霊園にある
  参考 「川崎長太郎 抹香町 路傍」の巻末収録年譜より
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川崎長太郎が通った「だるま料理店」(小田原市本町2丁目) 明治26年に創業、金沢出身の初代・達磨仁三郎の姓にちなみ屋号とした 大正12年の関東大震災で倒壊するが 大正12年に贅(ぜい)を尽くした唐破風入母屋造りの建物を再建した 平成14年に国指定有形文化財に登録される 川崎長太郎が「ちらし寿司」を食べに訪れた当時と同じ建物が現存してます  
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長太郎もおそらく視線を投じた天井を見つめながら彼の好物「ちらし寿司」1160円(2011年現在)を味わう

小田原 川崎長太郎の物置小屋跡http://zassha.seesaa.net/article/387706453.html

posted by y.s at 23:58| Comment(0) | 関東各地tokyo-widearea | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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