2013年11月06日

愛宕 桜田門外ノ変 水戸・薩摩浪士集結地

この愛宕神社が水戸・薩摩浪士18名の襲撃直前の集結地とされたのは1860年(安政7年)3月3日、桜田門外ノ変の当日の早朝のこと。元号が安政から万延に改元されるのは桜田門外ノ変の15日後のことです。
襲撃前日(3月2日)に、東海道品川宿にある遊郭(薩摩藩藩士・増上寺の僧らの御用達の遊所だった)内の引手茶屋稲葉屋・妓楼相模屋で浪士らは最後の打ち合わせを行っている。井伊大老の登城時刻が五ツ半(午前9時)である探索情報が伝達され、その為に外桜田門には用心して五ツ(午前8時)に待機、その前に芝の愛宕山山上に集結することが指図されている(品川・鮫洲の川崎屋で待機していた指揮者・金子孫二郎の指図を木村権之衛門が伝達)。金子はまた、襲撃現場の指揮を関鉄之介に一任(襲撃作戦の概要5ヶ条は金子がすでに決定済み)している。この時に金子が用立てていた短銃5挺が弾薬とともに関に手渡されている。妓楼相模屋で最後の酒宴の後、目立たぬよう近くの稲葉屋に三々五々移動し、夜更けまで細部の打ち合わせが関鉄之介を中心にして行われている。
3月3日は未明から大雪。先発隊5名(薩摩の有村・増子・大関・杉山・広木)が愛宕山に登る。前日の打ち合わせ通りに六ツ半(午前7時)までに山上に一同勢揃いする。関が到着する頃には全員が茶店の縁台などに待機していた(茶店というのは・・参考:吉村昭の小説「桜田門外ノ変」)。外桜田門へのコースは急石段を下ってすぐ左、新シ橋(あたらしばし)で外堀を渡るのが最短である。虎ノ門方向は大名屋敷に遮られてT字路が多く直線路は無い(直近の寛永年間に刷られた麹町の尾張屋版江戸切絵図から)。おそらく2〜3人の小グループに分かれて寒風の雪道を決意に震えながら桜田門へ歩を進めたことだろう。
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愛宕山愛宕神社・・・徳川家康の江戸開府にあたり1603年(慶長8年)9月24日に建立 主祭神は江戸の防火・防災の守神として「火産霊命(ほむすびのみこと)」が祀られている また家康の持仏であった「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も祀られている 浪士18名が襲撃前の集結地にこの神社境内を選んだ理由は 勝運をもたらすこの神前で必勝の祈願をするため・・・だったに違いない
左写真は愛宕神社正面の86段ある急勾配(斜度は約40度)の男坂と称される石段 右写真の右端に桜田烈士の石碑
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神社本殿の前に置かれた桜田烈士の顕彰碑 稲田重蔵(桜田門外で闘死にした最年長者47歳)の名と四天王寺の文字が明確に読める(大阪の天王寺で事変の20日後に幕府の捕方に包囲され切腹して果てた薩摩藩への対応を受け持っていた高橋父子のことと推測)
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現在でも山上の境内には料理を出す店が(複数)ある・・・江戸初期から参拝客相手の休み処として茶店があったに違いない

鎌倉 桜田門外ノ変 広木松之介の顕彰墓碑http://zassha.seesaa.net/article/375779732.html
posted by y.s at 05:01| Comment(0) | 新橋・汐留・芝公園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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