2013年11月10日

日本橋 丸善と女店員・佐多稲子(作家)

1920年(大正9年)、後にプロレタリア作家として名を成す佐多稲子(窪川稲子の筆名で)は兵庫県相生町の父親の元から単身上京(当時16才)し、上野不忍池湖畔にあった料理屋「清凌亭」の座敷女中となる。翌年には丸善日本橋店用品部に女店員として就職。丸善の前身は、1869年(明治2年)に横浜で創業した書店「丸屋」。翌年には日本橋店を開業している。1910年(明治43年)に、日本橋店は4階建煉瓦造の新店舗に建て替えられる。佐多稲子が入店した当時はこの煉瓦造りの建物。2階が洋書売り場で1階に和書と文房具の売り場が配置されていた。洋品部所属の佐多稲子は、入口に近い正面脇の化粧品売り場に配属。佐多稲子著「私の東京地図」に、丸善時代のエピソードが語られている。19才の彼女はこの建物であの関東大震災に遭遇する。 
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煉瓦造4階建てだったのは関東大震災以前のこと 佐多稲子が女店員だった頃には真向かいの高島屋日本橋店はまだ建てられておらず空き地だった
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(左写真)煉瓦造時代の正面玄関の位置は正確には判らないが・・化粧品売り場はこの辺り(中央通り側)? (右写真)丸善のフロア案内に載ってる大正期の売り場風景

「私の東京地図」から <外国書の購入を一手に引受けて、日本最高の知識層もその店に居るのに何かしかの誇と愉悦とを感じるにちがいない丸善書店でさえ、店員の大半は縞の着物に前だれ姿であった。客もまた下駄ばきが多い。>
19才の着物姿(?)の女店員佐多稲子は、1923年(大正12年)9月1日に死者9万1802人、行方不明4万2257人の犠牲者を出した関東大震災に遭う。
<丁度食事どきで、店員たちの半分は食堂へ行っていたし、客の姿も少なくて、店は閑散としていた。私は女店員のひとりと抱き合って店の中ほどの飾りケースのそばに揺すられるままになっていた。(略)最初の揺れがひと先ず終ったとき、みんな外へ出ろ、と誰かにうながされて、私は抱き合っていた連れといっしょに、入口から外へ出た。出たとたんに、筋向うの野沢組の赤煉瓦の建物が、ざぁと前へ崩れ落ちた。あっ、これが大地震なのだ、と私はその瞬間にはじめて、今の経験を見定めた。(略)私たちは真向かいの荒囲いの空地へ集まった。>
丸善の店員たちは、未だ建設されていない高島屋百貨店予定地の広い空地に避難して無事を確認したことがわかる。佐多稲子ら女店員たちが丸善店内で目撃して、その容姿に見惚れていた作家(革命家)大杉栄は大震災から15日後の9月16日に、新宿・柏木の自宅近辺で憲兵隊に連れ去られ、九段の憲兵隊本部で虐殺される。
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(左写真)丸善のブックカバー (右写真)「作家の自伝34 佐多稲子」1995年刊・・「私の東京地図」が収められている
佐多稲子は、大震災の翌年4月に資産家小堀家の慶応大学の学生だった長男と20才で結婚し蒲田に移り住むが、大正14年を迎えると夫とともに自殺を計る。命は取りとめ、父親のいる相生の実家に引き取られる。6月に長女を出産するが、小堀家には戻ることはなく離婚に。佐多稲子21才・・つづきは「私の東京地図」で。
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posted by t.z at 23:55| Comment(0) | 東京東南部tokyo-southeast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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