2013年11月16日

京都 外村繁 「澪標」(みおつくし)の風景 

1960年(昭和35年)7月に文芸誌「群像」に発表された外村繁(とのむら・しげる)の小説「澪標」(みおつくし)から、彼の三高(現・京都大学教養課程)時代から親交のあった梶井基次郎・中谷孝雄との交友と京都の風景が描写されている部分をピックアップ(講談社文芸文庫版の該当ページ付き)して、交錯するかのように(?)写真を添えてみました。性描写が話題になった自伝的小説ですが、生涯に2人の女(最初の妻と再婚相手)を経験しただけの生真面目で潔癖といってよいほどの作者の人生を追体験する気は起きず仕舞い・・・全篇ひろい読みです。
「澪標」は作者の死(満59歳)のほぼ1年前に発表された作品。冒頭1行目から・・・
<<私が生れたところは滋賀県の五個荘である。当時は南、北五個荘村に分れていたが、今は旭村と共に合併して、五個荘町となっている。(P41)
三高の試験に失敗する。以来、一年間、私は憂鬱な日日を送った。(P94)
その私の仮寓は三条大宮を東へ入ったところにある。京の三条通も堀川を西へ渡ると、あのしっとりと落着いた気品は失われる。小さい小売屋が軒を並べ、客を呼ぶ声もかまびすしく、かなり猥雑な街になる。>>(P96)
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(左写真)旧・第三高等学校(三高)の正門 (右写真)堀川通を西に渡った三条商店街 長いアーケードがここから千本通手前まで続く 外村繁の下宿は堀川通と千本通の中間から東寄りでクロスする大宮通の東側路地にあった
  
<< 通りに面した商店と商店との間には、極めて狭い露地が幾筋も通じてい、それを通り抜けると、決って二軒、三軒と仕舞屋が建っている。私もそんな一軒を借りていたが、階下は畳も薄暗いので、二階を書斎に当てていた。その二階の窓の下にも狭い露地が通ってい、その奥の家には若い、琵琶の女師匠がその妹と住んでいた。夜になると、近所の若者達が習いに来て、賑やかな話声が止むと、琵琶の音が聞えて来る。
私の下宿からは神泉苑も近かった。神泉苑は当時既に池には水もなく、埃っぽい小庭園に過ぎなかったが、私の好む休みの場所となった。二条城も私の散歩の範囲にあったし、二条駅も私の好きな場所であった。散歩の途次、私は二条駅の木柵に凭り、単線のレールが鈍く光っているのを眺めながら、花園、嵯峨、保津峡、更に胡麻、和知、安栖里、山家などと、頻りに旅が思われたりした。またある日、春風の中に笛や、鉦の音が聞えているのに誘われ、その音を頼りに行ってみると、壬生狂言が行われていたりもした。>>(P97)
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(左写真)神泉苑は当時既に池には水もなく・・・御池通側の正面から入った池辺で (右写真)外濠に沿って押小路通が西に伸びる・・・二条城二の丸東南隅櫓 外村の下宿は左手約400uの三条通
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二条駅の木柵に・・・1904年(明治37年)築の省線・二条駅舎は移築され 梅小路蒸気機関車館の正面入口として転用されている 外村が想いにふけった木柵も単線のレールも もちろん無い
   
<<その頃、私は梶井や中谷と常に行動を共にするようになっていた。梶井は大酒家であり、愛酒家でもある。小料理屋で飲む酒の味も、私は梶井から教えられる。中谷は全く酒を嗜まない。が、私達の酒がどんなに長引いても、中谷がいなくなるようなことはない。電車のなくなった、京都の深夜の街を、私は中谷と歩いて帰ったことも幾度かある。中谷も、梶井も私より二年前に三高に入学している。しかし二人とも二度原級に停められている。いずれも出席日数の不足に因る。殊に中谷には既に愛人(現夫人)もあり、同棲していたこともある。が、今は彼女とも別れている。そんな人の心と心との葛藤もあろう。自分自身の心の悔恨もあろう。中谷はいつも不機嫌であったし、その表情には暗鬱な翳が消えることがなかった。>>(P111)
<<祇園石段下の「レーヴン」というカッフエに、梶井や、中谷や、私達が毎晩のように集ったのは、もう三高の生活も終りに近い頃である。中谷のその一学年の出席数は悪くなく、卒業は確実である。梶井の卒業はかなり危ぶまれたが、理科である梶井が大学は英文科に転じる決心もつき、教授達の間を運動中である。卒業後、私達は東京の大学へ行き、時期を見て、同人雑誌を出す計画である。その頃の私達の雰囲気はかなり明るかったと言わなければならない。梶井も、中谷も、私も卒業した。その夜、私達は例によって「レーヴン」に集り、京都に残る人達と酒を汲み交わす。私は前後不覚に酔ってしまったらしい。翌朝、私が目を覚ますと、汽車は浜松駅に停車するところである。私と、梶井と、中谷とはプラットホームに降りて、水を飲んだ。
梶井は文学部英文学科、中谷は独文学科、私は経済学部経済学科に入学することができる。私達三人は銀座や、神楽坂を飲み歩く。酒を飲まぬ中谷は相変らず不興げであるが、梶井は関西弁丸出しで、ユーモラスな諧謔を飛ばしたりして、かなり機嫌がよい。>>(P114)

作者・外村繁は、大正11年4月三高劇研究会に参加する。そこで梶井基次郎・中谷孝雄を知る。この年、梶井はほとんど講義に出席せず、毎夜の飲酒と女郎買いの退廃生活を送っている。翌年10月に、準備中の劇研究会の最初の公演(チェホフ「熊」など)が学校側により中止命令を受ける。精神的打撃を受けた梶井・中谷・外村は、連日連れ立って飲み歩き、暴れまわる。梶井はビール瓶で負わされた顔の傷が消えることはなかった(カフェー・レーブン事件)。梶井はこの年に習作「カッフェー・ラーヴェン」を残している。
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(左写真)大正13年 東京帝大に進学した外村らは同人雑誌を計画する 梶井は11月に名作「檸檬(れもん)」を脱稿 大正14年1月 同人雑誌「青空」創刊し「檸檬」掲載 「青空」発行所は麻布区市兵衛町2丁目の外村繁の家・・・印刷は低費用で済む「岐阜刑務所」で行い 冬休みに梶井・外村・中谷の3人で受け取りに行っている 写真はその外村の家付近(現在の六本木3丁目の不動坂・・左先付近) 右は「澪標・落日の光景」講談社文芸文庫1992年刊
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posted by t.z at 22:57| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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