2013年11月23日

京都 見廻組与頭・佐々木只三郎の宿舎・観音寺

1867年(慶応3年)3月24日、京都見廻組与頭・佐々木只三郎の宿舎周辺で事件が発生する。時代は激しく新時代に向って潮流が変わろうとしている(年表参照)・・・その最中に「遊郭で遊女を巡ってのいざこざ」から幕府方同士の武装部隊による衝突にまで発展した(表沙汰に出来ない)事件です。
北野上七軒(遊郭)で揚屋を営む「鍵屋哥(かぎや・うた)」の店を訪れた幕府歩兵隊(洋式軍装)の兵二人が、宿営地まで遊女の派遣を依頼するのだが、馴染みがないため拒否されてしまう。難癖をつけて店に居座ってしまったため、店側は近くに宿舎を構える見廻組与頭に助けを請う使いを出す。見廻組の者が取締まりに駆け付けるが、歩兵隊の一人は逃げ帰ってしまう。
暫くすると歩兵隊幹部(吉田直八郎ら)が与頭・佐々木只三郎の宿舎(観音寺)を訪れ抗議を始めるが、妙心寺からさらに武装した歩兵が多数駆けつけてくる(歩兵一小隊の資料も有り)。指図もないまま観音寺に向けて実弾を数十発(数発説も有り)打ちかけてしまう。一旦は収まるが、夜に入ると再び数百人が屯集し発砲騒ぎに。見廻組も天満宮境内に二百人ほどが詰めて対峙する。結果は、通り合わせた会津藩と薩摩藩士の仲介により収拾することに。翌日、双方から進退伺いがだされるが、時局を考慮し内々で処置されることに。
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(左写真)北野天満宮鳥居前 鳥居を挟んで見廻組と歩兵隊が対峙したという (右写真)見廻組与頭・佐々木只三郎の宿舎・・・観音寺 周辺の古い石灯籠に銃撃の痕が残っているかもと探すが見つからず
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(左写真)観音寺本堂横から (右写真)御前通から見た上七軒の歌舞練場
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上七軒の中心といえる真盛町 しっとりとした花街(俗称・真盛辻子といわれた付近)京都の遊郭では島原につぎ古い公認花街としての歴史をもっていた (右写真)西方尼寺の路地
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五番町方向にかなり離れた「下の森」(一条通から南の部分)は上七軒遊郭には含めずに 地図に記入した3町だけで構成されていた 鍵屋哥(かぎや・うた)の店の位置は不明  

北野天満宮で騒動が起った前年からの簡易な年譜です。
1866年(慶応2年) 
 1月6日 京都見廻役・蒔田相模守(浅尾藩主)に文武場の奉行兼任命令(中立売通智恵光院付近)
1月21日 薩長同盟成立する(坂本龍馬の裏書き)
 4月3日 見廻役・松平出雲守の辞任により蒔田相模守が一時的に兼任
 6月7日 第二次長州征伐開始
 7月20日 将軍家茂病没する(21歳)
 8月20日 幕府 将軍家茂の喪を発し一橋慶喜の徳川宗家の相続を公布
 8月21日 将軍死去により長州征伐中止の勅令下る
 9月4日 幕府 長州征討軍の撤兵を始まる
 9月12日 三条制札事件 新選組が土佐藩士8名を襲撃
 11月15日 京都見廻組 堀石見守が空席となっている松平出雲守の後任として京都見廻役に任命
 12月5日 徳川慶喜 二条城にて第15代将軍宣下
 12月25日 公武合体派の孝明天皇病没(?)36歳 崩御により公武合体派は衰退
       病死(天然痘)が疑われ毒殺説がささやかれる    

1867年(慶応3年) 
 1月9日 睦仁親王践祚((明治天皇)
 2月 京都所司代同心の桂早之助(龍馬を斬った?)・世良吉五郎ら見廻組並に登用
 3月24日 北野天満宮周辺で幕府歩兵隊と京都見廻組の衝突j事件発生
       (与頭佐々木只三郎の観音寺宿所に銃弾撃ち込まれる)  

谷中 宗林寺 京都見廻組・佐々木只三郎の供養碑http://zassha.seesaa.net/article/315992196.html 
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posted by t.z at 01:00| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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