2013年11月26日

飯倉片町 梶井基次郎の「ある崖上の感情」

20数篇の珠玉の短編作品を残し、肺結核により31歳で逝ってしまった梶井基次郎が、東京帝国大学文学部英文科の学生時代に下宿した場所のひとつが、飯倉片町。
1924年(大正13年)3月に、三高(京都)を5年がかりで卒業した梶井は、親友の中谷孝雄・外村茂(後に繁)と共に上京し、大学のある本郷で最初の下宿(本郷3丁目の蓋平館支店)に入居した。その年の12月には、中目黒の下宿に移転。翌年(大正14年)1月に、梶井の生涯の代表作となる「檸檬」(れもん)を、中谷・外村らとともに創った同人誌「青空」(創刊号)に発表する。創作活動に行き詰り、神経衰弱が昂じる中、5月31日に移転した下宿が、この飯倉片町の堀口方であった。
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(左写真)手前の広い通りは外苑東通り 右方向が六本木 ビルの間に見える路地が急激に南に下る「イタチ坂」 坂下すぐ右側には島崎藤村が18年間(47〜65歳)暮らした借家の跡がある (右写真)坂下から見た「イタチ坂」 左の1階部分が白く塗られたビルの場所が島崎藤村旧居跡(長編小説「夜明け前」をここで執筆した)
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(左写真)イタチ坂を下りると左右に道は分岐する(江戸時代から存在する細道) 左にさらに下る細い坂が「鼡(ねずみ)坂」(池波正太郎の時代小説に登場する) 右に再び上る坂が「植木坂」 (右写真)「植木坂」を少し上った右手に梶井が下宿した堀口繁蔵方跡がある 写真右側の建物が堀口方跡
梶井が下宿した堀口繁蔵方は、茶庭師の父親庄之助が引退し、目黒に隠居したため二階部分が空部屋になった。それを下宿として業(なりわい)にしたものであった。梶井が借りた部屋は、写真とは反対側の二階北側の4畳半であった。
1924年(大正14年)、移転の半月後の6月16日に「泥濘」完成。8月上旬から東大の夏休みを利用し、外村・淀野隆三と京都の宇治へ旅行する。さらに実父と連れだって道後温泉へ。9月初旬になって東京に戻っている。10月7日、短編「路上」を脱稿。11月に「橡の花」を発表した。
1926年(大正15年)、梶井26歳。1月、短編「過古」を発表。外村の住所に置かれていた同人誌「青空」の発行所を、3月1日付けで梶井の下宿(堀口方)に移転させる。4月、東向きの窓から眺められる(眺められた思える)島崎藤村宅を外村と訪問し、同人誌「青空」を献じる。7月に大阪阿倍野に帰り(清明神社の近く)、新潮社からの依頼原稿に取り掛かるが書けずに終わってしまう。8月に「ある心の風景」を発表するが、この頃、病状が悪化して血痰を度々見るようになる。東京の堀口方に詩人三好達治を誘い10月には三好は隣室に引越してくる。12月末に療養の為、川端康成が滞在する伊豆・湯ヶ島温泉を訪ねる。
翌1927年(昭和2年)、川端の知遇を得て、「伊豆の踊子」の校正に加わる。6月、同人誌「青空」を全28号をもって廃刊。川端を介して、詩人・萩原朔太郎、尾崎士郎、宇野千代らと交流する。東京の堀井方に再度戻るのは、翌年(昭和3年)の5月上旬になってからであった。この間、東大文学部は(昭和3年)3月31日付けで除籍処分になっている。
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(左写真)堀口方玄関前からの植木坂

短編「ある崖上の感情」は、「文芸都市」誌の昭和3年7月号に発表さる。この崖上の下宿(堀口方)で最初から推敲・執筆された作品ではない。大正15年7月に大阪阿倍野の実家で、新潮社の依頼で書けずに放棄した作品ではないかと推察されている。
新潮文庫の創作集「檸檬」に収められた「ある崖上の感情」から抜粋。
<<「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶おもい出すんです。僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている。そしていつもそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。すっかりこれが僕の運命だ。そんなことが思えて来るのです。――しかし、それよりも僕はこんなことが言いたいんです。つまり窓の眺めというものには、元来人をそんな思いに駆るあるものがあるんじゃないか。誰でもふとそんな気持に誘われるんじゃないか、というのですが、どうです、あなたはそうしたことをお考えにはならないですか」もう一人の青年は別に酔っているようでもなかった。・・・>> P203より
昭和3年5月上旬、梶井は堀口方に再度戻り「ある崖上の感情」を仕上げている。7月23日には堀口方を引き払い、杉並・和田堀の松ノ木町にあった中谷孝雄の借家に移り、同居を始める。高熱・血痰の症状が続き、衰弱が著しくなり中谷ら友人の説得で、9月3日に実家(大阪・阿倍野)に戻り静養する。
その後、梶井は大阪で静養を続け、病弱な母親の介護に携わるまで回復する。一旦は母親と共に伊丹の兄の家に世話になり作品執筆を続け、「愛撫」「闇の繪巻」「交尾」等を発表する。だが病魔(肺結核)は梶井の身体を虫食み、再度、大阪の実家に戻り寝床に就くが、1932年(昭和7年)3月24日に母親らに看取られ逝去した(実家近くに借りた住吉区王子町2丁目13番の家で)。
梶井が下宿した堀口方は、飯倉片町一帯を襲った昭和20年の米軍の空襲で、島崎藤村が長年生活した2階建て木造の借家ともども灰燼に帰している。この一帯はほぼ全焼し焼け野原(鼡坂下のみ焼け残る)となってしまった(「東京都35区区分地図帳戦災焼失区域表示付」昭和21年刊より)。

参考
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(左より)「年表作家読本 梶井基次郎」鈴木貞美1995年 「梶井基次郎 日本文学アルバム」1985年 「評伝 梶井基次郎」大谷晃一1989年
posted by y.s at 23:57| Comment(0) | 六本木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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