2013年11月28日

本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治

昭和11年(1936年)の夏、22歳の織田作之助は、大阪で沈鬱な日々を送っている。喀血の不安を抱きながら、読書と劇作執筆に埋没していた。
3月の三高(現・京都大学教養課程)卒業の失敗と退学、6月には支援を受けている姉夫婦(竹中家)への欺瞞の露呈、8月には、習作「青春の逆説」を懸賞小説に応募するも落選。
織田作之助は、孤独を癒すかのように血痰を吐きながら、道頓堀・心斎橋・千日前をあてどなく徘徊する。一日の会話は、煙草屋での「チェリー1個」以外は何ごとも話さない日もあった。
時折、訪れる恋人・宮田一枝とのひと時と、将棋倶楽部(千日前の大阪劇場地下)で1時間5銭で将棋をさすこと以外に暗い心を慰めるすべはなかったという。
10月に入ると、前年に同人誌「海風」を共に創刊した東京帝国大学美術史学科に進学していた青山光二から知らせが入る。東京本郷で喫茶店経営をしてみる気はないか、という打診であった。
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織田作之助や太宰治が出入りしていた喫茶店「紫苑」(しおん)跡 (右写真)「紫苑」の建物の裏側にある旅館「更新館」へ入る路地から フェンスを蔽う樹木・・現在は東大農学部キャンパス

<<東中野の二十六号館というアパートで、対い合わせの部屋に私たちは住んでいたのである。私は大学へはほとんど出かけなかったけれど、本郷の街へは、三日にあげず出かけて行った。農学部の建物に沿って千駄木の通りへ折れた所に、仲間のあつまる「紫苑」という、うらぶれた喫茶店があったからである。・・・「紫苑」のマダムは四十近い年増で、のちに聞いた噂ではドイツ人の妾だったとかいうことだが、かくべつ小柄な人で、首筋の所でそろえた断髪をオカッパにし、何時も厚化粧していたので、迂闊な私はさいしょ、十七、八の娘かと間違えたほどであった。と言うのが彩光のわるいこの店は昼なおほの暗く、夜は夜でうっとうしい明りがシミだらけの天井にただ一つともっているだけなので、カウンターのむこう側にひっこんでいるマダムの顔立ちも、容易には弁じがたいのであった。常住ショパンのレコードが流れているこの店は、六畳の部屋ほどな(ママ)広さの、いたんでデコボコになった三和土(たたき)に四組のボックスが詰めこまれ、どの椅子もバネがこわれていて、具合よく座るのに難渋した。が、実に奇妙な事ながら、この店のそういうところこそが、当時の文学青年どもの心を、離れがたくこの店に牽きつけていたのである。そして、この店をタマリにしていた常連のグループの中では、太宰治、檀一雄らの「日本浪漫派」の仲間と、私たちの「海風」の仲間とが、主なものであると言えた。>> 青山光二「青春の賭け 小説織田作之助」講談社文芸文庫P245〜246より
この「ガタガタの椅子に囲まれた、うらぶれ果てた店構え」の喫茶店を、マダム(三潴ハル)は他人に譲って、故郷の十和田湖畔にひっこみたいと青山に持ちかける。青山は、東中野で対い合わせの部屋に住んでいる三高からの親友である白崎礼三に同意を求め、大阪にいる織田作之助を正式に紹介することになったのだ。
上京した織田は、青山と白崎とをまじえて、マダムと対面する。ものの30分と経たぬうちに織田と二人で相談に出ていたマダムは、青山らの前に一人でただならぬ顔をして戻って来る。
<<「織田さんの宿は何処なんですか」「上野の駅前ですよ。・・・どうかしたんですか」「あんな頼りない人ってないですよ。あんなあやふやな態度で文学なんかやったって、ゼッタイだめよ!あたしの面目まる潰れだわ・・・」>>(「青春の賭け」より)
織田作は資金のあてもないのに大阪から出てきていて、金の話しになると「便所へ行く振りして逃げ出しちゃった」のである。青山と白崎は言葉に窮してしまう。もちろん隙をみつけて二人は半駆けに逃げ出すことになった。青山らはそれきり、「紫苑」に近寄ることができなかったのだ。
まもなく新しい経営者が決まり、内外装は一新され、明るくこざっぱりした店に変身した。ところが、いままでの常連だった文学青年らは、誰一人として足を向ける者がいなくなってしまったという。織田作は、宮田一枝と店を持つことを「夢」見たのだが、東中野の青山のアパートで喀血している。その後、すぐに帰阪し、織田作が再び本郷の地に現れるのは、翌年の5月になってからであった。
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    地図記載情報は昭和8年〜15年の本郷区火災保険特殊地図を参照
 
太宰治が、檀一雄ら「日本浪漫派」の仲間とこの店を訪れていたのは、織田作が、10月に譲渡の相談にくる以前だったと思われる。昭和11年の太宰は、パビナール中毒で入院(済生会芝病院・武蔵野病院閉鎖病棟)を繰り返しており、前年4月の篠原病院入院時から鎮痛に用いたパビナールが習慣化していて、7月には経堂病院から千葉の船橋町に療養のため転地していた。心身ともに消耗状態に陥っている。
<<太宰治はしばしば車代をせびるので、三潴(みつま)ハルに嫌われていた。手がこんでいた。カンバンになり、いったん店を出ていってから、引き返してきて、トントンと扉を叩く。マダムが開けると、「五十銭、用立ててくれないか」とささやいている声が、まだ店にいた私の耳にきこえる。カウンターの陰へ取りに戻って、しぶしぶ五十銭を渡したマダムに、「車代を借りている太宰は仮の太宰。ほんとうの太宰は、通りの角に檀君と、いる」つまり、返さないという意味だ。>> 青山光二「純血無頼派の生きた時代」P45から
太宰が喫茶店「紫苑」で、このエピソードを残したのは、太宰が第一創作集「晩年」を上梓する直前のことだった。「晩年」が砂子屋書房から刊行されたのは6月であった。青山ら「海風」のメンバーは、この店で太宰と面識を得たという。織田作と太宰が、この時点では未だ視線をあわせるには至っていなかった。
参考
「太宰治の年表」大修館書店2012年
「青春の賭け 小説織田作之助」青山光二 講談社文芸文庫
「純血無頼派の生きた時代」青山光二

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
posted by y.s at 23:57| Comment(0) | 本郷・谷中・根津・千駄木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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