2013年11月30日

大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」より

戦時下の昭和19年3月に、「新潮」に発表された織田作之助の短編小説「木の都」。
その年の1月に、三高(現・京大教養)以来の親友で詩人の白崎礼三が故郷の敦賀市で死去し、5月には、愛妻・一枝の病状がさらに悪化(子宮がんで8月に死去)する。「木の都」は、死が次々と重ね合わさる時間の流れのなかで、自らが育った下町を舞台に、私的な回想の中に虚構をまじえて詩情豊かに描いた作品だ。文学碑が置かれている口繩坂の上に立つと、自分の傍らに茜色に染まる西の空に遠く視線を向けている織田作がいるような感覚に包まれる。織田作は視線を西の空にむけたまま、「どや、ええところやろ」と一言だけつぶやくのだ。
織田作之助「木の都」から
<<大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。それは生国魂(いくたま)神社の境内の、巳さんが棲んでゐるといはれて怖くて近寄れなかつた樟(くす)の老木であつたり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)つた時に濡れた着物を干した銀杏の木であつたり、中寺町のお寺の境内の蝉の色を隠した松の老木であつたり、源聖寺坂(げんしやうじざか)や口繩坂(くちなはざか)を緑の色で覆うてゐた木々であつたり――私はけつして木のない都で育つたわけではなかつた。大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである。
試みに、千日前界隈の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津(かうづ)の高台、生玉(いくたま)の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたへた鬱蒼たる緑の色が、煙と埃に濁つた大気の中になほ失はれずにそこにあることがうなづかれよう。>>
短い時間で一気に読み終える短編作品です。全編紹介したくなる。
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<< 路地の多い――といふのはつまりは貧乏人の多い町であつた。同時に坂の多い町であつた。高台の町として当然のことである。「下へ行く」といふのは、坂を西に降りて行くといふことなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌るすだけでも私の想ひはなつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口繩坂である。>>
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「木の都」の最終節を刻んだ文学碑は口繩坂(急坂)を上りきった傍らに置かれている

<<再び年少の頃の私は、そのやうな故事来歴は与(あづか)り知らず、ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇たたずんでゐた私の顔が、坂を上つて来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたやうにぱつと赧(あか)くなつたことも、今はなつかしい想ひ出である。>>
夕陽丘女学校は移転し、現在は石碑だけが残っている。
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全集に収められた「木の都」(「織田作之助全集5」講談社1970年刊)を読み終え口繩坂を訪れたのは、2011年11月下旬。誰もいない坂上の碑板の横で、しばらくの間、吹き上げてくる冷たい風を受けて佇んでいた。
以下は石碑に刻まれている最終節。
<<口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。>>

織田作之助は、2年後にはもうこの世にいない。先立った妻一枝の眠る墓に入っている。遺品の中から、白い封筒に入れられた妻のものと思われる髪とボロボロに欠けた妻の写真が発見されている。その封筒は織田作が肌身離さず大切にしていたものだった。

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
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posted by t.z at 01:50| Comment(0) | 大阪osaka | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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