戦前、大坂城の北東域(外曲輪からビジネスパーク一帯)には広大な軍事工場(大阪砲兵工廠)が敷設されていたが、米軍の重点爆撃目標にされた結果、(昭和20年8月14日の)集中爆撃で全焼し、ほぼ壊滅した。現在、その跡地は大坂城公園として整備されており、かっての面影はほとんど見ることができない。戦後、1964年(昭和39年)から1998年(平成10年)まで自衛隊・大阪地方連絡部が使用していた赤煉瓦造りの2階建の建物が唯一、残存する大型遺構といえる。建物名は「大阪砲兵工廠化学分析所」。建築年は1919年(大正8年)。設計は置塩章(砲兵工廠建築課)。「大阪砲兵工廠」は、昭和15年4月に陸軍兵器本部が設置されたため「大阪陸軍造兵廠」と改称されている(全国の工廠が改称された)。
寝屋川に架かる京橋の上から 右側が北外曲輪の石垣 奥に大阪ビジネスパークの高層ビル (右写真)石垣の上の樹木の間に赤煉瓦の「化学分析所」が見える 天守閣上部も窺える
左右の石垣だけ残る筋鉄(すじがね)門跡・・門柱の礎石が残っている 1620年(元和6年)からの徳川家による大坂城改築普請で設けられた三の丸の西側門で 砲兵工廠の正門に転用された (右写真)京橋から来ると近道(?)のアーチ門
左右対称の水平ボリュームが大きい設計 1998年に自衛隊地方連絡部が使用停止した後は閉鎖状態に 窓は黒ベニヤ板で塞がれている
(左写真)中央部分の正面玄関 (右写真)西側側面
(右写真)筋鉄門を入ってすぐ右側(北外濠際)の赤煉瓦造りの廃墟化した1棟(砲兵工廠の遺構・守衛所)
*参考 「大大阪モダン建築」2007年 他