「人間豹」昭和9年5月〜10年5月講談社倶楽部連載初出より。
<<それは窓の少ない薄暗い部屋であったから、彼の両眼の螢火のような怪光をハッキリ見てとることができた。青く黄色く燃える眼底の妖火は、彼が激すれば激するほど、その光輝を増して行くように思われた。その眼、その日、その四肢をもって、黒い人間豹は、今や彼の美しい餌食(*神谷青年の恋人弘子)に飛びかかって行った。掴み合うたびごと、つき倒されるたびごと.ころがり廻るたびごとに、服も下着も引きちぎられ、今はもう身を蔽うものも残り少なくなっていた。>>
神谷青年は、人間だか野獣だか判別のつかない怪物に、かって目の前で恋人弘子を殺されている。呪うべき日から1年あまりが過ぎ去り、神谷青年には新しい恋人(江川蘭子)ができ、脳裏からは野獣の記憶が一日一日と薄らぎつつある。人間とも獣ともつかない男は、美しい容貌の若い女を次々と食いちぎり、(明智小五郎の新妻の)文代さんまで衣服を剥ぎとり、裸にして熊のぬいぐるみに押し込めてしまう。

(写真)かって竜土町の路地奥には瀟洒な洋館が建っていた。その洋館があった路地よりやや南よりの
細路地に現在も古い煉瓦塀が残っている。御茶ノ水外堀際の「開花アパート」から文代さんを連れて、
移り住んだ新たな「明智探偵事務所」は、この付近なのだ。
<<明智小五郎は「吸血鬼」の事件の後、開花アパートの独身住いを引き払って、麻布区竜土町に、もと彼の女助手であった文代さんという美しい人と、新婚の家庭を構えていた。その家庭が同時に探偵事務所でもあった。低い御影石の門柱に「明智探偵事務所」と、ごく小さな真鍮の看板がかかっている。そこをはいって、ナツメの植え込みに縁とられた敷石道を一と曲がりすると、小じんまりした白い西洋館、玄関の呼鈴を押せば、直ぐさまドアがあいて、林檎のような頬っぺたをした詰襟服の愛くるしい少年が顔を出した。これも「吸血鬼」事件でおとなも及ばぬ働きをした少年助手小林である。>>
人間豹は、神谷青年の新しい恋人、レビュー団の女王江川蘭子に襲い掛かる。
<<その朝、神谷芳雄の宅へ、奇妙な贈り物が届けられた。差出人は誰ともわからない。それを運んできた運送店へ、夜の白々明けに一台の自動車がとまって、神谷芳雄の所書きを示し、これをすぐに届けてくれと依頬されたとのことである。(略)
神谷青年はある予感にうちのめされて、心臓は早鐘をつくように騒ぎはじめたのだが、といって、見ないわけにはいかぬ。ソッと花束をかきのけて行くと、ああ、果たして、果たして・・・名探偵の予言はむごたらしくも的中したのだ・・・そこには、全裸体の江川蘭子の死骸が、まるで蠟人形のように美しく横たわっていたのである。その白蠟のようなからだのうちに、ただ一箇所美しくないところがあった。蘭子を殺したものは、美しくない部分であった。喉のところにパックリと口をあいた赤黒い傷痕。それは何か猛獣のするどい牙でもって喰いちぎられたように見えた。>>

<<棺桶配達事件は、被害者が帝都興行界の花形江川蘭子であった上に、殺人者が世人を戦懐せしめていた怪物人間豹とわかっているので、その騒ぎは一と通りでなかった。その日の夕刊は、あらゆる激情的な形容詞を濫費して、ほとんど社会面全ページをこの報道でうずめた。被害者蘭子の写真、明智小五郎の写真などが、見世物のようにデカデカと掲載せられた。(略)>>

(写真)明智小五郎新事務所付近見取り図。
「江戸川乱歩全集7巻」収録「人間豹」1969年10月講談社刊より
参考
「江戸川乱歩 貼雑(はりまぜ)年譜」講談社1989年刊
江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より http://zassha.seesaa.net/article/447350572.html
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html
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江戸川乱歩は 偉大なるエログロ通俗小説家です エロは艶っぽさより妖しさに重心を置いていて グロの割合いが七割ぐらいを占めている感じです 妖・怪のふたつのあやしさがミックスされた世界に引き摺りこまれます 乱歩おじさんが横でお供してくれるので安心して不思議ワールドに踏み込めます
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