2013年12月19日

大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助

作家織田作之助が、少年時代から立ち寄っていた本屋が「波屋書房」。
難波南海通に面した波屋書房の前を東に20mほど進むと、そこの四つ角には、かって織田作が愛した馴染みの店が軒を並べるように集まっていた。織田作の陰鬱な日々を癒した大阪劇場地下の将棋倶楽部、喫茶店「花屋」、日本橋筋の姉夫婦の家から通った銭湯、まむしの「いずもや難波店」などだ。この四つ角の中に立ち止まると周囲の雑踏が渦をまいたように廻りはじめ、遠く戦前の木造家屋が居並ぶ、織田作が歩き回っていた世界に連れて行かれそうになる。黒帽子に黒マントを翻して織田作がうしろを通りすぎて、「花屋」に入って行くではないか・・・。
戦災で焼失して再建されなかった店が多いが、「いずもや」は、<時代と合わなくなってしまった(女将さん談)>と閉鎖移転し、現在まで姿を残しているのは「波屋書房」だけになっている。*「いずもや」の移転先先は船場グルメタウン地下2階。

「織田作之助全集 第8巻」(講談社刊)に収められた日記から(P343より)
<<昭和13年4月16日 ひる起きる。竹中に行く。竹中に二時間ばかり。西沢氏に行き、一緒にすし捨に行く。(注・すし捨は上記、大阪劇場の東側の路地にあった)西沢氏に別れ、トミ子と心斎橋を少し歩き、下宿への土産にこぶを買ってもらう。トミ子と別れ、ナミ屋へ行く(注・ナミ屋=波屋書房)。本を二冊(ルナアル日記、ドルジェル伯の舞踏会) 道頓堀の本屋に行く。(略)>> 
昭和13年の織田作の日記に登場するように波屋書房の創業は、さらに遡った1919年(大正8年)。創業者は画家の宇崎純一・祥二で、戦前は同人誌「辻馬車」(藤沢桓夫らが発起し武田麟太郎らが参加・・・文庫カバーに藤沢桓夫の「文学的フランチャイズだった」の言葉が残る)の発行所であった。織田作が書いたように、波屋書房も戦災で焼けているが、1ヶ月後にはすぐさまバラックを建てて店を逞しく再開している。現在は店内の半分以上の棚が料理専門書で占められるほどその道の専門書店になっている。
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正面がなんば南海通の入口 100mほど先の左側に波屋書房がある 右写真の左先に波屋書房の白い看板が見える その先の十字路に大劇や花屋があった
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現在も営業中の波屋書房
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左右とも波屋書房のブックカバー 創業者であり画家の宇崎純一(すみかず)の絵が使われている
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織田作之助の作品で「波屋書房」が詳しく描写されているのが短編「神経」だ。「文明」誌1946年(昭和21年)4月発表(春季号)。その(三)から抜粋。    
<<暫らく立ち話して「花屋」の主人と別れ、大阪劇場の前まで来ると、名前を呼ばれた。振り向くと、「波屋」の参さんちゃんだった。「波屋」は千日前と難波を通ずる南海通りの漫才小屋の向いにある本屋で、私は中学生の頃から「波屋」で本を買うていて、参ちゃんとは古い馴染だった。参ちゃんはもと「波屋」の雇人だったが、その後主人より店を譲って貰って「波屋」の主人になっていた。芝本参治という名だが、小僧の時から参ちゃんの愛称で通っていた。参ちゃんも罹災したのだ。私は参ちゃんの顔を見るなり、罹災の見舞よりも先に、「あんたとこが焼けたので、もう雑誌が買えなくなったよ」と言うと、参ちゃんは口をとがらせて、「そんなことおますかいな。今に見てとくなはれ。また本屋の店を出しまっさかい、うちで買うとくなはれ。わては一生本屋をやめしめへんぜ」と、言った。
「どこでやるの」と、きくと、参ちゃんは判ってまっしゃないかと言わんばかしに、「南でやりま。南でやりま」と、即座に答えた。南というのは、大阪の人がよく「南へ行く」というその南のことで、心斎橋筋、戎橋筋、道頓堀、千日前界隈をひっくるめていう。
その南が一夜のうちに焼失してしまったことで、「亡びしものはなつかしきかな」という若山牧水流の感傷に陥っていた私は、「花屋」の主人や参ちゃんの千日前への執着がうれしかったので、丁度ある週刊雑誌からたのまれていた「起ち上る大阪」という題の文章の中でこの二人のことを書いた。しかし、大阪が焦土の中から果して復興出来るかどうか、「花屋」の主人と参ちゃんが「起ち上る大阪」の中で書ける唯一の材料かと思うと、何だか心細い気がして、「起ち上る大阪」などという大袈裟な題が空念仏みたいに思われてならなかった。
ところが、一月ばかりたったある日、難波で南海電車を降りて、戎橋筋を真っ直ぐ北へ歩いて行くと、戎橋の停留所へ出るまでの右側の、焼け残った標札屋の片店が本屋になっていて、参ちゃんの顔が見えた。
「やア、到頭はじめたね」と、はいって行くと、参ちゃんは、「南で新刊を扱ってるのは、うちだけだす。日配でもあんたとこ一軒だけや言うて、激励してくれてまンねん」と言い、そして南にあった大きな書店の名を二つ三つあげて、それらの本屋が皆つぶれてしまったのに「波屋」だけはごらんの通りなっているという意味のことを、店へはいっている客がびっくりするほどの大きな声で、早口に喋った。
しかし、パラパラと並べられてある書物や雑誌の数は、中学生の書棚より貧弱だった。店の真中に立てられている「波屋書房仮事務所」という大きな標札も、店の三分の二以上を占めている標札屋の商品の見本かと見間違えられそうだった。
「あ、そうそう、こないだ、わてのこと書きはりましたなア。殺生だっせエ」参ちゃんは思いだしたようにそう言ったが、べつに怒ってる風も見えず、「――花屋のおっさんにもあの雑誌見せたりました」「へえ? 見せたのか」「花屋も防空壕の上へトタンを張って、その中で住んだはりま。あない書かれたら、もう離れとうても千日前は離れられんいうてましたぜ」
そう聴くと、私はかえって「花屋」の主人に会うのが辛くなって、千日前は避けて通った。焼け残ったという地蔵を見たい気も起らなかった。もう日本の敗北は眼の前に迫っており、「波屋」の復活も「花屋」のトタン張り生活も、いつ何時なんどきくつがえってしまうかも知れず、私は首を垂れてトボトボ歩いた。>>

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
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posted by t.z at 01:38| Comment(0) | 大阪osaka | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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