この冬の記憶と重なる文章を、水上勉の紀行文のなかに見出したのだ。作家水上勉は、雑誌「旅」に連載中の「日本の底辺紀行」の執筆のために昭和39年6月に奥能登を旅行しており、「奥能登の海石」と題する紀行文を発表している。輪島について記述している部分を抜粋。
<<六月のはじめに、金沢から能登へ廻った。(略)「木地屋(きじや)さんでっしょ」と女中さんはいう。「木地屋って・・・」「輪島塗りの下地をつくるところです」 私は、輪島塗りの作業そのものは一貫していて、製造工場でつくられるものと思ってきたのだが、きけば、輪島には、この種のうす暗い二階で仕事をする木地屋とか、沈金師とか、蒔絵師や大工などが無数にあるということであった。根をつめ、時間をかけて塗りあげねばならない精巧な漆器のことである。いくつもの分業を経て完成するのか、とあらためて・・・・(略)翌朝、私は輪島市内を歩いて、塗師土蔵を見た。その土蔵も暗かった。十畳ほどの板間の中央に、うすい座布団にすわった六十すぎと思える職人が、三味線のバチのようなヘラで、漆黒のうるしをこねていた。うしろの押入れに、何枚かの塗り終えた盆が見えた。そこが乾燥室らしかった。ゴミが入らないようにしているのだと老職人がいった。>>
水上勉の紹介した通りの同じ工程を、「輪島塗漆器 稲忠」の紹介により、沈金師や蒔絵師の自宅兼仕事場を訪ね回り撮影したことを思い出したのだ。その当時はすでに、水上勉が描写した「うす暗さ」は過去のイメージとなっていた。どの工程でも、一般住宅の一部を作業場として兼用していたことによるのだろう。
*輪島塗漆器 稲忠HP http://www.inachu.jp/
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水上勉「奥能登の海石」より
<<塗師土蔵を出て、町のはずれにある重蔵神社という名前がおもしろくて、立ち止まって御影石の鳥居を眺めていた。(略)小さな社のよこをぬけて海の方へ歩いた地点に、観音町というむかしの遊郭の町があった。「輪島観音町」という名も、私好みにすぎるかもしれないが、観音の町というのがおもしろい。素通りしてみるのも惜しい気がしたので、車を止めて、とある喫茶店をみつけて入っていった。小雨の中に煙っている町なみは、すべて昔の遊郭の面影をのこしていた。>>
この旧遊郭一帯は、撮影で訪れた当時は、輪島の唯一(だった気がする)の夜の歓楽街(小料理店・飲み屋・スナック等が灯りを点していた)となっており、毎夜のように旅館で借りたゴム長靴で雪を踏みしめて通ったことを思い出す(スナックのお姉さんのことは覚えているが、赤線があった頃と同じスタイルの店はなかったと思われる)。約1年にわたって連載された紀行文「日本の底辺紀行」を1冊にまとめて単行本として出版されたものが「負籠(おいご)の細道」(1965年6月中央公論社刊、1997年文庫版が集英社から発行)
以下は学生時代の旅行で撮った輪島朝市。長い歴史を誇る輪島の朝市は、全国の朝市を代表する存在と言ってよいだろう。その起源は千年以上も遡ると伝わっている。元旦から3日間と毎月10日・25日が休業日。
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参考
「負籠(おいご)の細道」1997年集英社文庫
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