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鎌倉は実際、ほとんど本格的空襲を受けることなく無条件降伏の日を迎えている。昭和20年5月23日夜、十二所(じゅうにそ)にB29による焼夷弾攻撃を受けた記録が残るぐらいで、あとは海岸線で空母搭載の戦闘機による市民に対する機銃掃射がおこなわれた程度の被害で戦争は終結している。日本の古都(京都・奈良・鎌倉)が米軍の攻撃目標から除外されたのは、戦前日本に二度にわたり来日し日本美術を学び研究した東洋美術史家ランドン・ウォーナー博士による米軍への提言(空爆目標回避のウォーナーリスト)であったとする新聞記事(終戦直後11月の朝日新聞掲載の談話)が掲載されてからは、日本の文化遺産を守った恩人として認知され定着してきた。鎌倉の記念碑建立に先立って(鎌倉は6番目)、1958年6月に最初となるウォーナー博士の供養塔・顕彰碑が法隆寺に建てられている。ウォーナー博士が、1955年(昭和30年)6月9日に73才で死去すると、奈良県議会は弔文(ちょうぶん)決議を採択し、政府は叙勲(勲二等瑞宝章)を決めている。鎌倉では1ヶ月後に、北鎌倉の円覚寺で追悼法要が営まれている。
1994年7月に、歴史研究家・吉田守男(京都大学卒・元大阪樟蔭女大教授)の「ウォーナー伝説批判」(「日本史研究」誌)が発表されるに及び、それまでの「定説」に疑問符が打たれ始める。さらに文化財保護に複数の貢献者の存在も浮上し、現在まで、過去の「定説」はあいまいな状態のままとなっている。ウォーナーリストに記載され保護されるべき文化財は、空襲により数多く被災している(名古屋城・皇居・増上寺・浅草寺・大坂城・岡山城等々)。また、奈良・鎌倉が大規模空襲から免れたのは、単に小規模都市という理由から爆撃リストの順位が後ろに回され、攻撃を受ける前に戦争が終結したためと結論されている。
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西口広場には以前、京都の老舗「平野屋」の系列割烹旅館が建っていて、1923年(大正12年)夏、岡本一平・かの子・太郎の一家(画家・岡本太郎の子供時代)が避暑のため長期滞在していた。この旅館を贔屓にしていた芥川龍之介の狂気にまつわるエピソードが、岡本かの子の「鶴は病みき」に書き残されている。芥川は、小人(こびと)がうじゃうじゃいると炎天下の庭の蟻(あり)を殺しながら、庭に藤の花や山吹が咲いているのを眺め、「これはただ事ではない、天地異変が起こる」と関東大震災を予言して東京に帰ってしまった。9月1日、鎌倉駅のホームで東京行の12時発の横須賀線の列車を待っていた岡本かの子は、ホームごと突き上げられる巨大地震を(上右写真)の場所で経験することになる。
参考 「かまくら今昔抄60話 第二集」冬花社2009年刊 その他
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