2013年12月29日

大阪 北野田の六軒長屋 織田作之助「蚊帳」「高野線」から

1939年(昭和14年)7月15日、阿倍野筋2丁目の料亭「千とせ」で挙式した織田作之助と(宮田)一枝は、その日のうちに南海高野(こうや)線の北野田駅に近い新居に移る。長姉・竹中タツが探してきた新築のサラリーマン向けの二階建ての六軒長屋(家賃月23円)で、東向きに開かれた窓からは尻田池と呼ばれる溜池が眼前に広がっている。住所は大阪府南河内郡野田村丈六。織物新聞社を辞した織田作は、9月1日に堂島浜の日本工業新聞社に入社し、非鉄金属を担当する。月給50円。同月、同人誌「海風」6号(東京本郷・品川力方が発行所)に「俗臭」を発表するが検閲により発禁処分(品川力が警察署に出頭)を受ける。
1940年(昭和15年)1月、織田作は妻一枝を伴い別府に旅行。2月、「俗臭」が芥川賞候補になる。4月、「夫婦善哉」発表(同人誌「海風」)。6月、「夫婦善哉」が改造社の第1回文芸推薦を受ける(選考委員は宇野浩二・川端康成ら)。同月頃、日本工業新聞社と同系列の「夕刊大阪新聞」の社会部に転籍し、文芸欄などに原稿を書く。8月、「六白金星」「大阪発見」を発表。10月、新聞社を辞して作家活動に専念する。
1941年(昭和16年)12月、同人誌「海風」解散し、大阪における統合同人誌「大阪文学」を輝文館(東区備後町4−91番屋敷・・移転後の日本工業新聞に近い)より創刊。
この頃(さらに後年か)、発表時期不明の短編「蚊帳」で野田村丈六での生活と情景を描写する。
<<彼の家は池の前にあった。蚊が多かった。
新婚の夜、彼は妻と二人で蚊帳を釣った。永い恋仲だったのだ。蚊帳の中で蛍を飛ばした。妻の白い体の上を、スイスイと青い灯があえかに飛んだ。
痩せているくせに暑がりの妻は彼の前を恥ずかしからなかった。妻は彼より一つ歳上だった。彼の方がうぶらしく恥しがっていた。
妻は池の風に汗を乾かして寝ついたが、明け方にはぐっしょり寝汗かく日が多くなった。肺を悪くしたのだ。
蚊帳の中で妻はみるみる痩せて行った。骨張った裸の体は痛ましかった。
(略)
そんな熱があっても、しかし妻は彼に抱かれたがった。病気をすると一層彼が恋しくなるらしかった。やがて死ぬものと決めている妻は、落日の最後の灯が燃えるように燃えたがっていた。>>
織田作之助全集第5巻・講談社・昭和45年6月刊行のP195〜197に収められた短編「蚊帳」からの抜粋。巻末に収められた盟友・青山光二の作品解題では「蚊帳」の発表は「夕刊大阪新聞」としているが掲載時期は不詳となっている。
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再開発によりビルが建ち並ぶ駅前(ローレルコートの2階デッキ)から織田作夫妻の住んだ六軒長屋(部分的に現存)の方向 (右写真)埋め立てられた尻田池
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六軒長屋は大部分が店舗に改築されているが建築当初のまま残されている部分もある・・ブロック塀は後年のもの 織田作夫妻の住居部分は惣菜屋 (右写真)長屋の前に広がっていた溜池は埋め立てられ平屋のスーパーマーケットが営業している
この野田村丈六での夫婦生活は、わずか5年で幕を閉じてしまう。一枝は病(子宮がん)に倒れ、昭和19年8月6日に30歳で死去する。 
「織田作之助全集第8巻」に収められた日記から、昭和19年の一枝が亡くなった日の部分を抜粋。
<<八月六日 妻一枝午前十時十分過ぎ永眠す。風強し。夜に入りて颶風となる。風の音天を恨むが如し。一枝あわれ、一枝あわれ。>>
翌日の項は、午後1時半からの激しい雨のなかの出棺の模様が記され、日記の終りは<<妻なし子なしやるせなし>>と結ばれている。翌々日の8月10日に大阪市天王寺区の楞厳寺(りょうごんじ)で告別式が執り行われている。
同全集第5巻に収められている短編「高野線」(「新文学」昭和19年11月号発表)では、妻の死を高野線の電車事故に重ね合わせる形て描き出し、激痛に耐えながら死を迎えた妻に対しての悲痛な心情をにじませている。P49〜P54から抜粋。 
<<九月三日の夕刻南海電車の高野線で死者七十数名という電車事故があった。(略) 妻が死んだのは八月の六日だから、まだ一月も経っていなかった。(略) 私は何も悪いことしたことはないのに、なぜこんなに苦しまんならんのやろと妻がいったその苦しみを、妻に負わした運命に対する怒り、いや、もっと得体の知れぬあるものへの得体の知れぬ怒りにいつかそれは変じていた。>>
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北野田駅前は戦前とは別世界のようにビル群に変わっている 長屋前の溜池のあった位置は荒涼とした雰囲気が残り、当時に想いをはせることが出来る
*織田作之助全集第7巻・講談社の口絵に長屋全景モノクロ写真の掲載有り
一枝が納骨された楞厳寺(りょうごんじ)の墓には、現在、作之助と一枝、作之助の両親が眠っている。
楞厳寺 大阪市天王寺区城南寺町1-26 http://futsu-no-otera.jp/?p=3659  
*参考 「大阪春秋」第152号(特集「大阪に生きるオダサク」)
    「織田作之助」大谷晃一 沖積舎刊

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/383029592.html
京都 しるこ屋べにや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383338605.html
大阪 難波 雁次郎横丁 織田作之助「世相」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383495231.html
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posted by t.z at 20:05| Comment(0) | 大阪osaka | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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