2014年01月22日

鎌倉 曼陀羅堂やぐら群

北鎌倉山ノ内に移住後のある一日、澁澤龍彦は夫人を伴って名越切通を歩き、曼陀羅堂やぐら群をサングラス越し(推測)に網膜に焼き付けていました。
<<またある晴れた初夏の一日、「今日はお天気がいいからちょっとハイキングしようよ」と逗子に住む三門夫妻をさそって、曼陀羅堂、お猿畑、披露(ひろう)山から浪子(なみこ)不動まで、午後から出かけてちょっと汗をかいてきたこともありました。
曼陀羅堂には名越の切通しから入ります。鎌倉七切通しの一つで、左右の切り立った崖は人工的な切り岸で昼なお暗く、馬一頭が通れるほどの狭さ。昔の面影を残し、しんとした道を登ってゆくと、鎌倉武士たちが乗った馬の蹄(ひづめ)の音が聞こえてきそうでした。
ほんの十分ほど歩いて着く曼陀羅堂は、御堂があるわけではなく、おびただしい数の「やぐら」と四季おりおりの花が咲き乱れているだけです。その日は、紫陽花と菖蒲(しょうぶ)の花が盛りでした。花の中にもぐってしまいそうな小道を、「こんどはしだれ桜のころ来ようね」と言いながら歩いて、二階建てになっているのや、五輪塔の入ったやぐら群を見てまわりました。>>澁澤龍子著「澁澤龍彦との日々」P78から
鎌倉・逗子両市に跨る山中に残存する中世の遺構「まんだら堂やぐら群」(国指定史跡「名越切通」内)は、澁澤夫妻らが歩いた頃は通行が自由であったが、その後、史跡公園整備計画により逗子市により買収され閉鎖される。現在も調査・保存整備のため閉鎖中だが、年1回の指定期間のみ一般公開(逗子市教育委員会主催)されています。鎌倉市の大町5丁目方向からJR横須賀線に沿った名越坂から曼陀羅堂やぐら群を目指したのは、2009年11月下旬の快晴の公開指定日でした。
*国指定は1966年(昭和41年)4月、昭和56年と58年に追加指定有り
*澁澤龍彦=1928年〜1987年 仏文学者・翻訳家・作家 北鎌倉・浄智寺に眠る
*やぐら=鎌倉〜室町時代に鎌倉を中心に流行した横穴形状の墓 鎌倉周辺に無数に残る
    mandara01.jpg    

mandara02.jpg    mandara03.jpg
やぐらの個々の大きさは2m四方ほどの小規模なものがほとんどで階段状に重なっていて150以上が確認されている 崩落の危険から立ち入り禁止の箇所も見受けられます 報国寺などには大規模なやぐら群が裏山に掘られているので見比べるのも楽しみ方かも 「曼陀羅堂」の名称が確認できる最古の文献は1594年(文禄3年)の検地帳で畠の地名として記録されている 曼陀羅堂は消滅(年代不明)しており地名のみが残っている
mandara04.jpg  mandara05.jpg
やぐら内には五輪塔が並ぶ 逗子市教育委員会の調査でやぐら群前の平場からは柱穴の遺構や遺物が発見されており 出土物から鎌倉時代後期から造成され始め 室町時代中期まで荼毘・埋葬が続けられたと考察されている
mandara06.jpg  mandara07.jpg

   mandara08.jpg  mandara09.jpg
(右写真)名越切通の堀割り切通路にある置石 外敵の攻撃に備えた馬防石と思える
mandara10.jpg  mandara11.jpg
名越切通を象徴する景観とされていた逗子市側の第一切通の最狭部(幅は90cm) 江戸時代末期〜明治初期より以降にかけての崖の崩落により狭まったと判明している(元幅は2.7m以上) 切通路全体が江戸時代末期までは現在の倍以上の道幅であったと結論されている *左写真の右部分の岩下部は白い凝固薬剤で崩落防止処理(平成16年)がされています 
 mandara12.jpg   mandara13.jpg
参考
*「澁澤龍彦との日々」澁澤龍子著 白水社2005年刊
*逗子市教育委員会平成21年度一般公開配布資料
posted by y.s at 23:57| Comment(0) | 関東各地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。