2014年01月24日

鎌倉 東勝寺橋 澁澤龍彦の旧居(残存)

<<そこからバス通りを鎌倉駅方面にもどり、宝戒寺の前から小町大路を少し行って左に曲がると、滑川にかかる東勝寺橋に出ます。そのたもとには、彼が戦後住んでいたひっくり返りそうな古い家があり、そのまま橋を渡ってさらに坂道を登ってゆくと、北条一族の残兵が自殺したと伝えられる「腹切りやぐら」があります。>>「澁澤龍彦との日々」P81より
澁澤龍彦は、幼年時代から長らく暮らしていた東京市滝野川区中里町の家族との住まい(借家)を、1945年(昭和20年)4月13日の米軍B29の大編隊による夜間空襲で焼け出され、鎌倉の伯父の家(雪ノ下)へ一時避難する。戦後の昭和21年に、深谷に移っていた家族とともに再び鎌倉に移り住む。雪ノ下の伯父宅(磯部英一郎)から離れ、しばらくして鎌倉市小町410番地の借家に落ち着く。この家が「東勝寺橋のたもとの古い家」で、1966年(昭和41年)8月に北鎌倉の新居が落成するまで、長らく生活(執筆)の場となってゆく。目まぐるしく移転を繰り返す作家・詩人が多い中、片手の指を折るだけ事足りることは稀といえます。澁澤は、この地において翻訳家・作家としてのキャリアを積み上げてゆくのです。
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滑川に架かる東勝寺橋上から見た旧居
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旧・澁澤家の眼下を流れる滑川 澁澤が生活していたままに現存する建物
澁澤龍彦はシュルレアリスムに熱中し マルキ・ド・サドと出会う 東京大学仏文科を卒業しフランス文学翻訳家として名を高める 1960年に矢川澄子と最初の結婚 そして最高裁まで争う「サド裁判」に(最高裁結審1969年10月)
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澁澤の旧居前から東勝寺橋の先に延びる坂道 約200m先に東勝寺の旧跡・・鎌倉幕府滅亡の地です 北条一族がこの山中に追い詰められ自ら命を絶ってゆきました
参考
「澁澤龍彦 新潮日本文学アルバム」 1993年刊
「澁澤龍彦との日々」澁澤龍子 2005年刊
「澁澤龍彦 文藝別冊」 2002年刊
posted by y.s at 22:59| Comment(2) | 関東各地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私が住んでいる、東京都北区には、アンバサダーとして、ドナルド キーンさん、水森かおりさん、倍賞千恵子さんが名を連ねています。が、澁澤龍彦さん、芥川龍之介さん、川島芳子さんがかつて北区に住んでいたことは、紹介されていません。故人だからというのもあるかもしれませんが、曰く付きの人?としてワザと避けているような気がします。
Posted by 定マニア at 2014年01月25日 20:44
定マニアさん、いつも書き込み有難うございます。
澁澤龍彦は、中里で少年期を過して、小石川高に通学してますね。中里は管理人の母方の実家があったところです。管理人が生まれるのはだいぶ後ですが、滝野川の記憶が残っている錯覚にとらわれます。明治通りの梶原の停留所のすぐ近くだったのですが、芥川の家、澁澤の借家、西ヶ原の内田康夫の実家、宇野浩二が入院させられた脳病院などすべて昭和20年の同日の夜間空襲で焼失しています。芥川の家は有名で、その周囲の田端の文士村(?)が知られているぐらいで澁澤の家など無関心そのもののようです。
急に宇野浩二が入院した脳病院をアップしたくなりました。斉藤茂吉、広津和郎、芥川ら様々な人間関係が、西ヶ原の精神病院に凝縮されてます。当時、宇野浩二は上野桜木の美大の北側に住んでいて、箱根に療養に向かう途中、小田原で途中下車して、バラの花びらを食べています。芥川の遺作の、最後の章でそのことが書き残されています。自殺の決意をしていた芥川の背中を押したのは、宇野浩二の発狂といわれています。
また、書き込みよろしくお願いします。
Posted by 管理人 at 2014年01月26日 13:45
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