2014年01月27日

鵠沼 旅館東屋での狂気の交差 宇野浩二と芥川龍之介(付記・王子脳病院と青山脳病院)

 芥川龍之介「或阿呆の一生」より
<<彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。 「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」 この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、薔薇の花さへ食つてゐたと云ふことだつた。彼はこの友だちの入院した後、いつか彼のこの友だちに贈つたテラコツタの半身像を思ひ出した。それはこの友だちの愛した「検察官」の作者の半身像だつた。彼はゴオゴリイも狂死したのを思ひ、何か彼等を支配してゐる力を感じずにはゐられなかつた。>>  

1926年(大正15年・昭和元年)
 1月7日 新潮合評会。田山花袋、芥川龍之介、宇野浩二、広津和郎ら出席。
    東京駅前で芥川、斎藤茂吉と会い花月で食事を馳走になる。
 1月15日 芥川、湯河原の中西屋旅館に湯治・療養に出発。
    震災で中西屋は別の場所に移動している(主治医下島への書状)。 
    芥川、胃腸悪く神経衰弱も昂じる。不眠症にも陥る。
    (胃アトニー・胃酸過多症=斉藤茂吉に紹介された内科医による診断結果)
 1月 宇野浩二、報知新聞の客員となり(里見ク・菊池寛・佐藤春夫とともに)、
    長編小説各自2篇の執筆を約す。宇野が最初の番を担当する(「魔都」)。
    以後、約1年間月給が入るようになる。    
 4月9日 不眠症で佐佐木茂索から勧められたアロナアル・ロッシュを
    2錠のんでもきかず、しばらく服用をやめていたアダリンを
    1グラム飲んでやっと眠る。以後これらの睡眠薬を常用する。
 4月15日 小穴隆一を下宿に訪ね自殺の決意伝える。 
 4月中旬 宇野浩二、八重と東山温泉に。ここで愛人と逗留していた八重の叔母と会い、
    塩原温泉まで旅行。(「思ひ川」に記)
 4月22日、芥川、鵠沼の旅館東屋(あずまや)に滞在。妻子(文・三男)を伴う。
    1ヶ月の滞在予定が翌年1月まで延びる。
 5月1日 芥川、佐佐木茂索への手紙に「定刻散歩」と体調は「割合に好い」と記す。 
 6月初旬 芥川、湯河原1泊旅行(中西屋旅館)、田端に数日帰る。
 6月下旬 芥川、胃の不調で田端に戻る(下島医師の診察受ける) 
 7月初旬 芥川、旅館東屋に戻る。見舞いに来た斎藤茂吉の勧めで東屋の
    貸別荘「イ-4号」に移る。妻の文、三男・也寸志と共に住む。
    夏休みに入り、7月20日過ぎに遅れて比呂志、多加志も来る。
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    鵠沼海岸 旅館東屋跡
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   芥川龍之介の「蜃気楼」(婦人公論1927年3月発表)から 
<<或秋の午頃、僕は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに蜃気楼を見に出かけて行った。鵠沼の海岸に蜃気楼の見えることは誰たれでももう知っているであろう。現に僕の家の女中などは逆まに舟の映ったのを見、「この間の新聞に出ていた写真とそっくりですよ。」などと感心していた。僕等は東家の横を曲り、次手ついでにO君も誘うことにした。不相変赤シャツを着たO君は午飯の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。(略)僕等は引地川の橋を渡り、東家の土手の外を歩いて行った。松は皆いつか起り出した風にこうこうと梢を鳴らしていた。>>
*芥川は「東屋」を「東家」と表記している
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東屋の遺構 鵠沼公民館の庭に保存される海浜口(裏門)門柱=内側から見て右側の門柱
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(左写真)海浜口の門柱跡プレート (右写真)鵠沼公民館の門柱説明板の東屋写真=画面中央に海浜口門が見える
   芥川龍之介「鵠沼雑記」から 東屋での鬼気迫る一文を引用
<<僕は鵠沼の東屋の二階にぢつと仰向けに寝ころんでゐた。(略)
僕は全然人かげのない松の中の路を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角へ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。僕は風向きに従つて一様に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪ゆがんでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。これは不気味でならなかつた。>>
1926年(大正15年・昭和元年)
 7月下旬 芥川の誘いで、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて
    住む(1軒おいた隣 翌年2月まで)。
 7月末 宇野浩二、村上八重と修善寺、湯ヶ島、伊東を巡る。
    宇野、この頃より神経衰弱気味になる。、
 8月12日 芥川、佐佐木茂索夫妻に来訪を勧める手紙。
    土産のかわりにアロナアル・ロッシュ2瓶を依頼。下島医師にも来訪促す。
 8月下旬 芥川、新婚生活を送った鎌倉大町の家(約1年居住)を妻と訪問。
    (「追想 芥川龍之介」芥川文P119より)
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(左写真)鎌倉の芥川夫妻の新婚時代の住居跡(小山別荘跡) 右側に芥川龍之介旧居跡の説明板有り 右は鵠沼の旅館東屋見取り図

 9月22日 土屋文明から25日頃に訪問したいとの問い合わせに、芥川、承知の返信。 
    当日、斎藤茂吉を伴い見舞い来訪する。
    (「追想 芥川龍之介」には東屋に1泊と記憶)。
 10月1日 芥川、「点鬼簿」を改造に発表(この作品で「僕の母は狂人だった」と
    出生の秘密を初めて明かす)。
 10月中〜下旬 芥川、東屋「イ-4号」から西裏手の二階家に移る。
    (写真が残っている。玄関前に井戸)

*随筆「追想 芥川龍之介」芥川文(芥川夫人) 中公文庫1981年より
<大正十五年末、主人と私と三男也寸志と三人で、私の実家のある鵠沼海岸の東屋旅館に滞在しました。>

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   旅館東屋にほど近い鵠沼海岸3丁目の芥川夫人・文さんの実家(右端付近)
   右端車庫付近が旧表示の5501番
 11月21日 芥川、斎藤茂吉にアヘンエキスの送付を依頼。
 11月28日 芥川、斎藤茂吉にオピアム送付の礼状書く。
   28日夕方、宇野浩二(35歳)が母と箱根・熱海旅行の帰途、母と別れてから
    鵠沼・東屋旅館の芥川を見舞いに訪れる。
    (「宇野浩二伝」水上勉全集第16巻P506より)
    芥川は激しい神経衰弱に陥っていたが、宇野自身も神経衰弱を自覚しており、
    二人は東屋で食事を共にし、中央公論新年号への原稿依頼が来ている話をする。
    夜、宇野は横須賀に行く。
 12月13日 芥川、斎藤茂吉にアヘンエキス2週間分の送付を依頼する。
 12月14日頃より芥川、田端に帰り、執筆続ける。 
 12月16日 芥川、宇野との中央公論1月号同時掲載を話題にした「玄鶴山房」
    を完成できず、中央公論1月号(1〜2章のみ)・2月号に分載とする。
 12月 宇野、八重と湯河原を旅行。
 12月20日頃、芥川、鵠沼・東屋に戻る。
 12月31日 芥川、体調崩し、単身で鎌倉小町園に行き静養する。

1927年(昭和2年)
 1月2日 芥川、鎌倉・小町園から引き上げて田端に帰る。 
 1月4日 芥川の義兄の西川豊(次姉ヒサの夫)が、放火と保険金詐欺の嫌疑を
     かけられ取調べを受ける。西川は、6日午後8時に千葉県内で鉄道自殺。
    この頃、芥川、平松麻素子の父親の世話でt帝国ホテルに部屋を取り仕事をする。
 1月19日 芥川、「玄鶴山房」の残りの章を脱稿・完成。
 1月30日 宇野浩二が「玄鶴山房」をほめたことに対し礼状を書く。
 2月12日 鵠沼の旅館東屋にいる親友の小穴隆一に長い留守をわびる手紙を書く。
    (1月20日くらいまでには東屋に帰る予定でいたと書かれている) 
 2月16日 芥川、ヴェロナアルを常用する。
 2月19日 芥川、改造社招待の歌舞伎座観劇に室生犀星と出かける。
    斎藤茂吉、広津和郎らと挨拶。閉演後、里見ク(さとみとん)に連れられて多勢で
    吉原の引手茶屋にゆく。帝国ホテルに宿泊。
 2月27日 芥川、改造社の宣伝講演会参加のため佐藤春夫らと大阪に出発。
 2月27日 芥川、大阪中之島公会堂で講演。谷崎潤一郎宅に佐藤と共に1泊。
 3月1日 芥川、「河童」「蜃気楼」を発表。この日、大阪弁天座で谷崎・佐藤夫妻と共に
    文楽を見る。夜、谷崎を宿に誘い歓談。宿の内儀の紹介で根津松子が訪ねてくる。
    谷崎は2児の母である松子と後に結婚(3番目の妻)する。
     *松子と昭和10年に結婚。「細雪」幸子のモデル。1991年2月1日没。
 3月6日 芥川、大阪より帰る。
 3月 宇野浩二、小説「日曜日あるひは小説の鬼」を雑誌「新潮」に発表。
    (宇野の「文学の鬼」の呼称の由来となる)
 3月中旬 宇野の神経衰弱、次第に強くなる。
 3月28日 芥川、文と多加志を連れて鵠沼に行く。「歯車」の執筆。
 4月2日 芥川、単身で帰京。
 4月6日 芥川、下島勲と室生犀星を訪問。 
 4月16日 芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父親・弁護士平松福三郎で妻・文の
    幼友達)と、仕事場として使っていた帝国ホテルの一室で心中を企てるが
    未遂に終わる(7日説有り)。当日になって麻素子が小穴隆一に打ち明けた
    ことから、家族に知られ、説得されたため。
  *この頃、宇野浩二はしばしば田端に芥川龍之介を訪ねている。
  (芥川は田端435番地に終生の家を、1914年(大正3年)10月に新築)
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(左写真)芥川龍之介の終焉の地 左側一帯が芥川邸跡 戦災ですべて焼失し痕跡はない 古いブロック塀も戦後のもの わずかに山茶花のみが往時を偲ばせている 左写真の道路左奥に玄関となる門戸があり、芥川自筆の「忙中謝客」の札が下げられていた (右写真)芥川邸跡地に建つお宅が、旧表示の住所プレート(芥川邸の住所)を残している <北豊島郡滝野川町字田端四百三十五番地>

1927年(昭和2年)
 4月 斎藤茂吉、養父の紀一が引退、青山脳病院院長を後継する。
 5月2日 芥川の妻・文、也寸志を連れて鵠沼の実家に行く(4日に帰る)。  
 5月5日 芥川、内田百閧フ訪問受ける。
*「芥川龍之介雑記帖」内田百1986年河出書房新社(文庫版)に収録された芥川竜之介の「内田百間氏」から<内田百間氏は夏目先生の門下にして僕の尊敬する先輩なり。文章に長じ、兼ねて志田流の琴に長ず。>
 5月13日夜 芥川、改造社の「現代日本文学全集」の宣伝講演旅行のため
    上野駅から里見クと共に東北・北海道方面に出発。
 5月14日 仙台で講演。
 5月16日夜 青函連絡船で函館到着。以降、20日まで道内で講演続ける。 
 5月21日 青森で最終講演(旧制弘前高校の太宰治が聴衆)。 
 5月22日 芥川、単身、新潟に。 
5月27日 田端の自宅に戻る。
 5月 斎藤茂吉、次男宗吉(北杜夫)が誕生。

 5月30日 宇野浩二、発狂する。芥川、広津和郎と善後策協議する。
 6月2日 広津和郎は宇野の病気を案じ、青山脳病院に斎藤茂吉博士を訪問。
    偶然に玄関で芥川龍之介と出会う。

 以下、広津和郎「あの時代」を参考
前日(6月1日)、広津は大森馬込の自宅に宇野夫人キヌの使いの訪問を受け、「病状悪化」を知らされ、上野桜木町の宇野宅に急行している。広津は「伊香保に行こう」という宇野を誤魔化し、上野駅には向かわずにハイヤーで牛込の新潮社に連れてゆく。宇野は新潮社社屋でアイスクリームやハムエッグ・トーストを持ってくるよう言い放ち、周囲を唖然とさせる。さらに宇野は、改造社に行こうと駄々をこね、改造社からさらに新橋、浅草と転々と広津に同行を求めている。浅草では「芥川も知ってる女がいる」からと小さい待合にあがっている。広津が女将に聞いた話によると「芥川先生も宇野先生も近頃、様子がおかしいと云って、芸者たちもこわがりまして・・・・」。広津は、二人連れ立って来ては女たちも気味わるがるのも無理あるまいと感想を書いている。広津が翌日、ただちに青山脳病院を訪れ、面識のあった斎藤茂吉博士に往診を請い、玄関に出てきた時に丁度、芥川が車で乗り付けてきたのだ。芥川は広津に手を振り「やっぱり宇野か?」。芥川は続ける「今朝宇野を訪ねたんだよ。実に吃驚したよ。・・・」。診察を終えた斎藤博士をハイヤーに乗せ、三人は上野桜木町の宇野宅に向かう。宇野は斎藤博士の診察を素直に受ける。博士が「鎮静剤を上げましょう」というと、芥川が横から「鎮静剤なら僕がいいのをもっている」と愛用のヴェロナールらしきものを出そうとするが、斎藤博士は芥川を無視して白い粉薬を宇野にわたしている。このエピソードの後、芥川と広津は宇野宅から歩いて帰るのだが、芥川は「君は眠れるか」と広津に問い、「僕はいい薬をもっているからあげよう」と自分の薬を広津にもすすめる。翌日から広津は馬込から宇野宅へ連日通っている。宇野宅の玄関をくぐるとそこにはすでに芥川がいた。

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 (左右写真)歌人斎藤茂吉博士が院長を務めた青山脳病院の跡地

 6月 宇野は母キョウ、画家の永瀬義郎らに伴われ、東京駅から静養のため箱根強羅に向かう。小田原で下車するが、宇野が一人で突然姿を消し、永瀬らが探し回る。小田原市内の料理屋の2階の座敷で宇野は発見されるが、床の間にあった花瓶の薔薇の花をむしりとって食べていたのだ。強羅での3日目には、家に帰ると言い張り、数日で帰京することに(強羅に八重は呼ばれている)。(永瀬義郎「宇野浩二回想」より)
この奇行(薔薇の花さへ食つてゐた)は芥川に聞こえることになり、冒頭に引用した「或阿呆の一生」の終章<五十 俘(とりこ)>に描写される。(1927年10月改造に発表)
 6月15日 青山脳病院は全焼(1924年12月)被害を受けていたため、設備の整った病院を斎藤茂吉博士の紹介を受けて、宇野は入院する。斎藤茂吉博士と広津、キヌに伴われ、宇野は滝野川区王子の小峰病院に向かう。ここで宇野は3日後の入院を強く主張し、小峰院長の許可を得てしまう。帰宅を許してしまった広津に対し、翌日、斉藤博士は珍しく強い叱責をしている。宇野は3日後、再び斉藤博士に連れられて小峰病院に入院する。退院は70日後であった。その退院日には、すでに芥川はこの世にはいない。この日、芥川は鎌倉に佐佐木茂索を訪ねる。川端康成の来訪もあり、共に夕食に招かれる。夜、タクシーで鵠沼に泊まる。
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青山脳病院から斎藤茂吉らに付き添われ宇野が入院した「小峰病院」跡(下図参照)  現在の西ヶ原郵便局が入るビル周辺の広い敷地に「小峰病院」が存在していた 戦時中、南側にあった王子脳病院に吸収合併される (右写真)本郷通り向かい側から
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王子脳病院(旧王子精神病院)跡地は現在北区立飛鳥中学校のキャンパスになっている かっての脳病院への正面玄関への通路が残っている

 6月20日 芥川、「或阿呆の一生」を脱稿。
 6月25日 芥川、小穴隆一と浅草の待合「春日」に行き、なじみの芸者・小亀に
      別れを告げる。
 7月1日 芥川、「冬の手紙」「三つの窓」発表。 
 7月15日 芥川、永見徳太郎を電報で田端に呼び寄せ、形見分けのつもりで「河童」
    の原稿を与える。(「芥川龍之介氏と河童」より)
 7月15日 芥川、妻の文と観劇。
 7月21日 芥川、内田百閧フ訪問を受ける。芥川は睡眠薬で半覚醒状態。
    内田百閧ニ小峰病院に入院中だった宇野の留守宅を訪ね、見舞いに行けない
    ことを謝罪し、ネマキと菓子箱を届ける。
    夜、堀辰雄を通じて会見を申し込んでいた佐多稲子と7年ぶりに再会する。
    自殺未遂経験のある佐多に、芥川はその詳細を尋ねている。   
 7月22日 異常な暑さの中、下島医師が来訪し、芥川を診察する。
    小穴隆一が遊びで訪れ、雑談する。
    夜、葛巻義敏(甥)に「今夜死ぬつもりが「続西方の人」が完成しないので
    やめにした」と話す。  
 7月23日 朝9時頃に起床。書斎にこもって「続西方の人」を執筆、深夜に脱稿する。
 7月24日午前2時、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲み込んで自殺。
 7月27日午後3時、谷中斎場で葬儀。
斎藤茂吉は、芥川が自ら処方した睡眠薬を飲み自殺したことに大きな衝撃を受けている。使用した薬品は、ベロナールとジェノアルとする説が一般的である。死の数日前に芥川を訪ねた、同じ漱石門下で親友の内田百閧ノよれば、芥川はその時点でもう大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。

 8月24日 宇野浩二 退院する。

参考
「芥川龍之介 新潮日本文学アルバム」1987年 新潮社
「年表作家読本 芥川龍之介」1992年 河出書房新社
「芥川龍之介雑記帖」内田百1986年河出書房新社 文庫版
「宇野浩二全集第5巻」中央公論社1972年刊
「宇野浩二全集第12巻」中央公論社1972年刊
「水上勉全集16」(宇野浩二伝)中央公論社1977年刊
「追想 芥川龍之介」芥川文 中公文庫1981年
posted by y.s at 18:33| Comment(0) | 関東各地tokyo-widearea | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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