この惨劇を記録した「愚管抄」(作者は摂政関白藤原忠通の子・慈円)は、事件の翌年(承久2年)に成立している。恐らく参列していた公卿らが帰京した直後に慈円は目撃談を聞いているのだろう。落命した源実朝は28歳(満26歳)であった。公卿に持ち去られた首は、すぐには発見できなかったために、胴体のみ(鬢髪1本を添えて)が勝長寿院(しょうちょうじゅいん=雪ノ下4-6-20に石碑のみ)に葬られる(「吾妻鏡」)。だが「愚管抄」には<<実朝が頸は岡山の雪の中より求め出たりけり>>とあり、時を置かずに発見されている。源義朝邸跡に建立された寿福寺の裏山墓域の崖下に掘られた「やぐら」に、母である北条政子の墓と並んで実朝の「墓」(供養塔)が残されている。
(写真)本殿石段(61段)下付近で、将軍実朝は公暁に襲われ落命した。現場付近の神木「大銀杏」(高さ30m)は、2010年3月10日未明に強風のため倒れ、根幹のみが残されている。
慈円「愚管抄」巻第六より抜粋。
<<サテ京へハノボラデ(実朝は京に上らず)、コノ大将ノ拝賀ヲモ関東鎌倉ニイハイマイラセタルニ、大臣ノ拝賀又イミジクモテナシ、建保七年正月廿八日甲午トゲトテ、京ヨリ公卿(くぎょう)五人檳榔(びんろう)ノ車グシツゝクダリ集リケリ。五人ハ、
大納言忠信 内大臣信消息。
中納言實氏 東宮大夫公経息。
宰相中将國通(くにみち) 故泰通(やすみち)大納言息(*二男) 朝政舊妻夫也。
正三位光盛(みつもり) 頼盛大納言息。
刑部卿三位宗長(むねなが) 蹴鞠(けまり)之料ニ本(もと)下向云々。
ユゝシクモテナシツゝ拝賀トゲケル。夜ニ入テ奉幣(ほうへい)終テ、寶前(ほうぜん)ノ石橋ヲクダリテ、扈従(こしょう)ノ公卿(くぎょう)列立シタル前ヲ揖(い)シテ、下襲尻引(したがさねのしりひき)テ笏(しゃく)モチテユキケルヲ、法師ノケウサウ(*行装)・トキン(*兜巾=ずきん))ト云物(いうもの)シタル、馳(はせ)カカリテ下ガサネノ尻ノ上ニノポリテ、カシラヲ一(いち)ノカタナニハ切(きり)テ、(実朝が)タフレケレバ、頸(くび)ヲウチヲトシテ取(とり)テケリ。
ヲイザマニ三四人ヲナジヤウナル者ノ出(いで)キテ、供ノ者ヲイチラシテ、コノ仲章(なかあき)ガ前駈(ぜんく)シテ火フリテアリケルヲ義時ゾト思(おもひ)テ、同ジク切(きり)フセテコロシテウセヌ(消える)。
義時ハ太刀(たち)ヲ持テカタハラニ有ケルヲサヘ、中門ニトヾマレトテ留メテケリ。
大方(おおかた)用心セズサ云(いふ)バカリナシ。皆蛛ノ子(くものこ)ヲ散スガゴトクニ、公卿モ何モニゲニケリ。カシコク光盛ハコレヘハコデ、鳥居ニモウケテアリケレバ、ワガ(*檳榔の)毛車ニノリテカヘリニケリ。ミナ散々(ちりぢり)ニチリテ、鳥居ノ外ナル數萬(の)武士コレヲシラズ。
此法師(*実朝を殺した公暁)ハ、頼家ガ子ヲ其(その)八幡ノ別當(*鎌倉八幡宮は当時、宮寺)ニナシテヲキタリケルガ、日ゴロヲモイモチテ、今日カゝル本意ヲトゲテケリ。一ノ刀(いちのかたな)ノ時、「ヲヤノ敵(かたき)ハカタウツゾ」ト云ケル、公卿ドモアザヤカニ皆聞(きき)ケリ。カクシチラ(シ)テ一ノ郎等トヲボシキ義村三浦左衛門卜云者ノモトヘ、「ワレカタシツ。今ハ我コソハ大将軍ヨ。ソレヘユカン」ト云タリケレバ、コノ由(よし)ヲ義時二云テ(*義村が義時に連絡)、ヤガテ一人(*公暁は一人で実朝の首を持ち義村の所へ赴いた)、コノ實朝ガ頸ヲ持タリケルニヤ、大雪ニテ雪ノツモリタル中ニ、岡山ノ有ケルヲコヱテ、義村ガモトヘキケル道ニ人ヲヤリテ打テケリ(*義村が家来を遣わし公暁を討たせた)。
トミニウタレズシテ(*公暁はすぐに討たれることなく)切チラシ切チラシニゲテ、義村ガ家ノハタ板(*板塀)ノモトマデキテ、ハタ板ヲコヘテイラントシケル所ニテウチトリテケリ。猶へ頼朝ユゝシカリケル(ひととおりでない)将軍カナ。ソレガムマゴ(*孫)ニテ、カゝル事シタル。武士ノ心ギハカゝル者出(いで)キ。又ヲロカニ用心(*警戒)ナクテ、文(ぶん)ノ方アリケル實朝ハ、又大臣ノ大将ケガシテケリ(名誉を傷つけた)。又跡モナクウセヌルナリケリ。
實朝ガ頸ハ岡山ノ雪ノ中ヨリモトメ出タリケリ。日頃ワカ宮(*鶴岳若宮)トゾコノ祀ハ云ナチイタリケル、其止遼二房(*公暁の居所)ツタリテ居タリケルヘヨセテ、同意シタル者共ヲバ皆ウチテケリ。又焼ハライテケリ。カゝル夢ノ又出キテ(*頼朝・良経の急死に続いてまたの意)、二月二日ノツトメテ(早朝)京へ申テ聞ヘキ。>>
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実朝を討ち取った公暁だが、大雪のなか首を携えて下北谷の備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり)の坊に戻る途中で(「吾妻鏡」)、まもなく落命する。<われかくしつ、今は我こそは大将軍よ、それへゆかん><義村がもとへゆきける道に人をやりて打てけり>(「愚管抄」)。「義村」とは頼朝以来の幕府の重鎮である三浦左衛門義村(1239年12月死去)のことで、執権・北条義時(実朝に同行していたが中門で待機しており難を免れた)に公暁からの使いがあった由を報告している。北条義時(北条政子の弟)は評定にてただちに公暁誅殺の命を発する。公暁は義村の館に向かう途中で、逆に義村から差し向けられた討手と遭遇する。奮戦するが義村の館の塀を乗り越えようとした所で討ち取られてしまう。鶴岡八幡宮寺の別当・公暁の単独の仕業とする史料もあるが、「愚管抄」には<をいざまに三四人をなじやうなる者の出きて、供の者をいちらしてこの仲章が前駆して火ふりて有けるを義時ぞと思て、をなじく切ふせてころしてうせぬ>と「3・4人同じような者」が出てきたとある。八幡宮寺の史料には、公暁に与力したとして数人が処せられている記録が残っているという(「吾妻鏡の謎」2009年刊より)。 *建保7年は4月12日に承久に改元
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参考
「愚管抄」岩波書店1967年刊
「全訳吾妻鏡」全5巻の巻3 新人物往来社
「吾妻鏡の謎」吉川弘文館2009年刊
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