2014年01月31日

鎌倉 鶴岡八幡宮 実朝暗殺

1219年(建保7年・己卯)1月27日夜、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝(頼朝の4男)は、鶴岡八幡宮での奉幣(右大臣拝賀)を終えて本殿前の石段を下ったあたりで、京よりの公卿5人(大納言坊門忠信・中納言西園寺實氏・宰相中将藤原国通・正三位平光盛・刑部卿三位難波宗長)が居並ぶ前で、突然躍り出た法師の形相をした第2代将軍頼家の子・公暁(くぎょう・19歳)に惨殺される。最初の太刀で首を落とされているのでほぼ即死だったはずだ<かしらを一の刀には切てたふれければ、頸をうちをとして取てけり>(「愚管抄」)。この惨劇を記録した史書「愚管抄」(全7巻・作者は摂政関白藤原忠通の子・慈円)は、翌年(承久2年)に成立している。恐らく参列していた公卿らが帰京した直後に慈円は目撃談を聞いているのだろう。落命した源実朝は28歳(満26歳)であった。公卿に持ち去られた首は、すぐには発見できなかったために、胴体のみ(鬢髪1本を添えて)が勝長寿院(しょうちょうじゅいん=雪ノ下4-6-20に石碑のみ)に葬られる(「吾妻鏡」)。だが「愚管抄」には<実朝が頸は岡山の雪の中より求め出たりけり>とあり、すぐに発見されている。史料ごとに様々な相違点があり混乱するばかりです。源義朝邸跡に建立された寿福寺の裏山の崖に掘られた「やぐら」には、母である北条政子の墓と並んで実朝の「墓」がある。こちらは供養塔と確定されているようです。
   sanetomo01.jpg  sanetomo02.jpg
2010年3月10日未明に強風のため倒れた神木「大銀杏」(高さ30m) 石段(61段)下付近で公卿らが居並ぶなか実朝は首を落された(銀杏の陰に隠れていたという史料な無い)(右写真)太鼓橋から本宮を遠望
sanetomo03.jpg  sanetomo04.jpg
本宮(上宮)から舞殿(まいどの)を望む 右側の樹木はかっての「大銀杏」(右写真)舞殿(下拝殿)  
sanetomo05.jpg  sanetomo06.jpg
実朝を討ち取った公暁だが、大雪のなか首を携えて下北谷の備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり)の坊に戻るのだが(「吾妻鏡」)、まもなく落命する。<われかくしつ、今は我こそは大将軍よ、それへゆかん><義村がもとへゆきける道に人をやりて打てけり>(「愚管抄」)。「義村」とは頼朝以来の幕府の重鎮である三浦左衛門義村(1239年12月死去)のことで、執権・北条義時(実朝に同行していたが中門で待機しており難を免れた)に公暁からの使いがあった由を報告している。北条義時(北条政子の弟)は評定にてただちに公暁誅殺の命を発する。公暁は義村の館に向かう途中で、逆に義村から差し向けられた討手と遭遇する。奮戦するが義村の館の塀を乗り越えようとした所で討ち取られてしまう。鶴岡八幡宮寺の別当・公暁の単独の仕業とする史料もあるが、「愚管抄」には<をいざまに三四人をなじやうなる者の出きて、供の者をいちらしてこの仲章が前駆して火ふりて有けるを義時ぞと思て、をなじく切ふせてころしてうせぬ>と「3・4人同じような者」が出てきたとある。八幡宮寺の史料には、公暁に与力したとして数人が処せられている記録が残っているという(「吾妻鏡の謎」2009年刊より)。  *建保7年は4月12日に承久に改元
sanetomo07.jpg  sanetomo08.jpg
(左写真)寿福寺の実朝の供養塔 向かってすぐ左に北条政子の墓がある (右写真)かっての大銀杏 倒壊直後に幹(高さ約3.6m)がすぐ西側に再生移植されてます
参考 
「愚管抄全現代語訳」講談社学術文庫
「全訳吾妻鏡」全5巻の巻3 新人物往来社
「吾妻鏡の謎」吉川弘文館2009年刊
posted by y.s at 05:20| Comment(0) | 関東各地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。