相模湾の海岸縁にある電燈のない黒塗りの物置小屋に逼塞し、蝋燭(ろうそく)の灯りを頼りに小説の執筆に従事し、小説の鬼・宇野浩二に<半ばあきれ、半ば畏敬の眼ざし>をむけられ、昭和の文壇に足跡を残した作家だ。以前は、川崎長太郎の実家(箱根の温泉旅館を得意先とする魚屋)の店頭道路側に文学碑が設置されていたが、平成23年6月頃に「物置小屋」のさらに海岸寄り(波打ち際近く)に移動している。
「物置小屋に逼塞」と表現すると閉じ籠っていた印象を与えるのだが、それは大間違いだ。閉じ籠るどころか連日のように出歩いていたようだ。代表作「抹香町」に結実した度重なる抹香町通い(物置小屋から北東方向・徒歩圏内にあった私娼窟で40〜50軒の平屋建ての娼家が固まっていた)、小田原駅西方の小田原競輪場に足を運んだり、市内で人妻との逢瀬を楽しんだり、小田原城址の市立図書館に通ったり、「チラシ丼」を食べに「だるま料理店」を度々訪れていたのは有名なエピソードだ。昭和28年頃、筆名が上がるにつれ、川崎にあこがれる女性ファンが次々と、薄暗い蝋燭(ろうそく)の灯りがたよりの「物置小屋」を訪れ始める(川崎が黙って返すわけがない)。<「物置小屋」を訪れる女性ファンが次々と現れ、娼婦を抱くのと変わらない一石二鳥のえげつなさ>と彼が書いたのは「「日没まえ」だ。
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川崎長太郎「歩いた路」に収められた「海辺の小屋から」より抜粋
<<魚屋のあととり息子の私が、両親や一人きりの弟を捨てて東京へ飛び出し、かれこれ十五、六年たっていながら、一家をなすこともなく、永住のつもりで故郷へ舞い戻ってきた。父親は数年前死亡しており、商売を継いだ弟が、中風病みの母親や、女房子と魚市場へ近い二階家を買取って移り、ふた間しかないもとの家は蒲鉾職人に貸し、裏の物置小屋へただで私が住みついたとしても、別にどこからも苦情の出る筈はなく、時たま東京方面からくる私宛の郵便物の配達先が、弟の住居の方になっていたりした。>>
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「新編水上勉全集」第16巻から「川崎長太郎を偲ぶ」
<<川崎長太郎さんにはじめて会ったのは、本郷森川町の宇野浩二邸だった。昭和二十二年だから川崎さんが復員してまもない頃だったと思う。夏なので菜っ葉色の海軍シャツに半ズボン、雑嚢のようなものをさげておられた気がする。(略)川崎さんの文章によると、宇野さんを囲む「日曜会」が箱根で開かれた際、川崎さんが案内役をつとめられたようだが、もともと師匠は徳田秋声だった「あらくれ会」の川崎さんだが、宇野さんとも川崎さんは親しくしておられた。小田原駅前火事の直後に、海岸の物置小屋を訪問した日のことを鮮明におぼえている。物置小屋で、トタン囲いの階下は地べたで、魚のウロコのへばりついた板箱がいっぱいかさねられ、住まいはその二階で、うす暗く、たてかけた梯子(はしご)が階段の用をなし、穴が出入り口だった。何かの箱が机がわりの様子で、もちろん電燈はなかった。>>
「雁の寺」「五番町夕霧楼」などを著した直木賞作家・水上勉の追悼文(川崎長太郎は1985年に小田原市立病院で死去)によって始めて彼自身がこの場所を訪れていたことを知り、物置小屋の内部の様子も知ったのです。
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小田原 川崎長太郎 早川観音の文学碑とだるま料理店http://zassha.seesaa.net/article/378455346.html
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