<<七月十七日、みの子ぬしが月次会(つきなみかい)なり。ひる少し前より家をば出づ。道しるべにとて、母君も出立(いでたち)給ひぬ。高等中学の横手の坂下るほど、雨少し降来ぬ。空は薄墨の様なるくも(雲)やうへ立重なりて、「やがて夕立しぬべし」など、通行人もいひぬ。真下まき子の墓なれば、母君と共に墓もうでする程、空いよへくらく成て、雨いよへ降にふる。こゝにて母君に別れ参らせ、みの子ぬしの家は直(すぐ)其むかひの道なれば、やがて行ぬ。集会者は十人計(ばかり)成し。>>
*みの子=田中みの子 島根県出身で「萩の舎」(中島歌子主宰)の友人。下谷区谷中町3番の自宅でこの日、月例の歌会を主催。
*真下まき子 明治23年頃他界。
本郷菊坂町から谷中方面に向かうには、現在では道路が整備されており、ほぼ一直線の経路を辿ることができるのだが、明治20年代までは幕末と変わらぬ道路状態だったと思える。「高等中学の横手」の帝大との間の道は、明治10年頃には部分開通していたのだが(射的場使用開始とほぼ同時期)、弥生坂は未だ着工されておらず(明治28年の開通)、暗闇坂方向に接続されているだけだった。小学館刊行の日記の「高等中学の横手」の注釈(六)には「根津に出る弥生坂」となっており、これでは一葉の苦労が半減されてしまう。一葉はこの時期、未だ言問通りが本郷通りと接続していない為、迂回路(暗闇坂をくだり根津宮永町方向に抜けるコース、または菊坂の家から新坂を登り帝大正門から構内を抜ける方法)を辿って、頻繁に上野の「東京図書館」に通っていた。この本邦初の公共図書館に一葉が最初に訪れたのは、この日の歌会の1ヶ月ほど前の6月10日で、田中みの子に連れられて行っている。一葉は弁当を持ち込んでまで、幅広く深い教養(特に「源氏物語」等の古典)を身に付けていく。
「東京図書館」は上野教育博物館付属の書籍閲覧所で木造二階建てであった。閲覧席は男女別で、二階が婦人席と特別閲覧席。1880年(明治13年)に築造された煉瓦造3階建(地下1階・高さ16m)の旧・書籍庫は現存している。現在は東京芸代音楽学部の1号館として使用されている。目の前に新道路が敷設され、旧東京音楽学校の敷地に組み込まれている。道路ができる前は東京美術学校の敷地の奥に存在していた。一葉がどのようにアプローチしたのかは古地図からも想像しがたくなってしまった。
参考
「樋口一葉全集第三巻日記編」小学館1979年刊
「樋口一葉 新潮日本文学アルバム」新潮社1985年
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