2014年02月14日

日本橋呉服町 竹久夢二の港屋絵草紙店跡

大正浪漫(ロマン)の叙情画家として名を残した竹久夢二が、東京・日本橋呉服町(現在の呉服橋交差点東角)に開いた「港屋絵草紙店」の跡地を訪ねた写真です。現在では何ひとつその痕跡を残していませんが、夢二の詩「宵待草」と絵をあしらった「夢二港屋ゆかりの地碑」が跡地付近のビルの敷地内に設けられています。
略年譜の月日の頭に印した●から●までの2年弱の期間が、日本橋呉服町2番地の「港屋絵草紙店」が営業していた期間です。開店日は確定できましたが、閉店に関する記述は残っておらず、2014年1月に刊行された河出書房新社「竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔」に収められた「みなと屋の夢二」の一節によってやっと推定できました。当時、「港屋」で働いていた吉田ソノさんの娘廣田知子さんが、母親の語ってきた話をまとめた文章で、閉鎖の理由までも判明できます(同書を読んでください)。
年譜が最も混乱せずに簡素に理解可能だと考え「略年譜」を作成しました。「竹久夢二正伝」(求龍堂)に収められた年表を主に参考にし、その他、岡山の竹久夢二郷土美術館の資料なども参照してます。
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日本橋呉服町2番地は現在の中央区八重洲1丁目で呉服橋交差点の東側付近 道路幅・道路形状も大正初期とは大きく変更されており左写真に推定位置を書き込みました (右写真)木造2階建の二軒長屋・・イメージ写真として京都清水二寧坂の「みなと屋」の画像
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新呉服橋ビルの敷地内の「夢二港屋ゆかりの地碑」 他万喜と彦乃と夢二の関係を思い出さずにはいられない絵と<待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ>の詩が刻まれている (右写真)上記の京都・二寧坂の「みなと屋」入り口

1884年(明治17年)9月16日 岡山県邑久(おく)郡本庄村にて竹久夢二(本名は竹久茂次郎(もじろう))次男として出生
(略)
1907年(明治40年)23歳
 1月 岸他万喜(たまき)と結婚 牛込区宮比町4番に居住
 4月 読売新聞社入社(時事スケッチ画担当)
1908年(明治41年)24歳
 2月27日 長男・虹之助(こうのすけ)誕生
  年内に小石川区で3回転居繰り返す
1909年(明治42年)25歳
 5月 他万喜と協議離婚
 7月・8月 富士登山(8月は他万喜を伴う)
 12月15日 初著作「夢二画集 春の巻」刊行 成功する
1910年(明治43年)26歳
 1月 麹町区四番町1番倉島方に転居 再び他万喜と同棲
 2月 離婚後 九州八幡の祖父母宅に預けていた長男を他万喜が呼び戻す
 (この頃 八幡在住の神近市子が後に上京し靖国神社裏の夢二家(倉島方)に出入り
 (=書生)したことを文章に残す)
 4月 転居 同区内の山元町2-17に  
 5月25日 大逆事件検挙開始
      夢二 大逆事件関与容疑で2日間拘留される    
 8月 房総・銚子町海鹿(あしか)島で離婚した他万喜と過ごす
   2歳の虹之助も伴い宮下旅館に滞在
   「宵待草」のモデルとなる長谷川賢に出会い恋心抱く
1911年(明治44年)27歳
 1月18日 大逆事件判決(大審院)24名に死刑判決(翌19日 大逆事件減刑12名無期に) 
 1月24日 牛込区牛込東五軒町に転居
 1月24日 大逆事件の幸徳秋水ら12名処刑
 2月 「夢二画集・野に山に」洛陽堂
 3月 会津若松市に 東山温泉に
 5月1日 次男・不二彦出生  たまきと別居
 6月 「絵ものがたり京人形」洛陽堂
 8月末頃 下谷区上野桜木町の「上野倶楽部」に居住
 9月 「月刊夢二 ヱハガキ」第1集発売 以降毎月刊行102集まで
1912年(明治45年)28歳
 3月21日 夢二主宰雑誌「櫻さく國 紅桃の巻」刊行
 6月 雑誌「少女」誌上に<さみせんぐさ>の筆名で「宵待草」の原詩を発表
 <7月30日大正に改元>
 11月23日〜12月2日 京都府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」開催
1913年(大正2年)29歳
 2月 戸塚村源兵衛59番に転居
 10月頃 戸塚村戸山新道18番に転居
 11月5日 「どんたく」刊行 「宵待草」が現在の詩形で発表される
 <待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな>
1914年(大正3年)30歳
 1月 他万喜と岡山に行き 大阪・京都・名古屋へ旅行
 2月 戸塚村源兵衛59番に居住
 7〜8月 福島市・郡山に旅行 7月中旬 福島ホテルで「夢二画会」開催
 8月 那須へ旅行(後から他万喜も行く)
●10月1日 日本橋区呉服町2番に 「港屋絵草紙店」を開店
 夢二は記念作「江戸呉服橋の図」を描く 「港屋」は版画・千代紙・絵葉書・手ぬぐいなど夢二がデザインした小物を販売した
「港屋」は夢二が離婚後も同棲していた他万喜(たまき)の自活を考慮して開いた店 案内状のサインは「岸たまき」で店を取り仕切っていたのは岸他万喜 店頭に吊るされた1mほどもある赤い長ちょうちんの横でポーズをとる着物姿の他万喜の写真が残されている(夢二の写真も残っている) 二軒長屋の1軒で間口はわずか2間余り(1間=1.8m)の狭い店であった 2階は6畳一間の和室でミシン刺繍を担当する吉田ソノが住み込み 他万喜とともに店を切盛りしてゆく 夢二と面接した翌日からソノは働き始めており 夢二が千代田町28番に住んでからは食事のため連日訪れて泊り込むこともあったようだ  
 11月 夢二 神田区千代田町28番へ移転 不二彦4歳も同居 2階8畳間が画室
 (場所は竜閑橋交差点の東側で現在はオフィスビルが立ち並びこの頃の道路は消滅している)
夢二は一回り年の離れた日本橋紙問屋の娘笠井彦乃と親しくなり この家に招いている 路地の入り口に和裁の教室があり そこへ通う笠井彦乃と顔を合わすうちに親しくなったとソノはばあやから聞いている 彦乃と他万喜はこの家で出くわしてしまうことなる
<10月に来店した笠井彦乃と出会う>とほとんどの伝記に記載されているが 当時 店は他万喜に任せており夢二はほとんど店にはいなかったようだ 彦乃は他万喜が店に出た後を見計らって鎌倉河岸の路地奥の借家を訪ねていたようだ 彦乃23歳 ソノ21歳
1915年(大正4年)31歳
 1月20日 「草の実」刊行
 1月 富山へ旅行
 2月 他万喜(たまき)を呼び寄せ 泊温泉に
 2月10日〜11日 富山県泊町の小川温泉で「夢二画会作品展覧会」開催
 4月1日 婦人之友社の雑誌「新少女」創刊 同誌の編集局絵画主任となる 
 4月 落合村下落合丸山370番に転居
 5月22日 彦乃と結ばれる 
 6月頃 高田村雑司が谷大原に転居
 12月20日 「小夜曲」刊行
1916年(大正5年)32歳
 2月下旬 三男・草一(そういち)が出生(戸籍では3月25日) 
 4月18日 セノオ楽譜第12番に「お江戸日本橋」装丁(表紙絵)
     以後昭和初期まで楽譜表紙280に及ぶ装幀を行う
 7月 栗原玉葉と初めて対面
 8月22日 「夜の露台」千章館刊行
●<この頃(9月?) 呉服町「港屋絵草紙店」閉鎖>
 10月 渋谷町下渋谷伊達跡1836番に移る
 11月9日未明 葉山・日蔭茶屋事件 神近市子(29歳)による伊藤野枝(22歳)と同宿の
     大杉栄(32歳)刺傷事件
 11月 京都に移る(上出水の堀内家に身を寄せる)
1917年(大正6年)33歳
 1月 次男不二彦が守屋東により京都に送り届けられる
 2月1日 清水二寧坂に家を借り移転
 2月3日〜5日 京都・四条倶楽部で展覧会
 2月 次男不二彦を連れて兵庫・室津へ旅行
 4月 高台寺南門鳥居脇に転居(以後3年間ここに落ち着く)
 6月 彦乃が上洛し夢二と同棲始める 
 8月〜9月 金沢市・粟津温泉・湯湧温泉などへ旅行
 8月25日 金沢市藤屋旅館で「夢二画会」開催
 9月15日〜16日 金沢市金谷館で「夢二抒情小品画展覧会」を開催

*地図は大正8年当時 呉服橋町1番には富士銀行グループの前身である安田信託銀行が出店しており現在はみずほ信託銀行となっている
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参考
「竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔」河出書房新社
「竹久夢二正伝」求龍堂
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posted by t.z at 23:55| Comment(0) | 東京東南部tokyo-southeast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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