前年(永禄9年)、織田信長は軍勢を率いて8月28日木曽川を渡り、河中島に陣したが洪水のため閏8月8日未明に信長軍は大敗している(「中島文書」)。同じく前年の9月5日、織田軍は北方の渡しから水路を墨俣に入り、柵を廻し築城(墨俣一夜城)。斎藤竜興の妨害を排除し、木下秀吉は三千の手勢で守る。9月25日、秀吉は飛報を信長に入れる(「武家事紀」古案)。「武家事紀」は江戸時代初期(1673年)に山鹿素行が著した歴史書(全58巻)。こうして足懸りを築いた信長は、美濃井口(岐阜)へ攻め込んでゆく。
稲葉山城(岐阜城)天守からの城下井口(=岐阜)の眺望
<八月朔日(=1日のこと)、美濃三人衆、稲葉伊豫守(=一鉄)・氏家卜全(=直元)・安東伊賀守申合せ候て、信長公へ御身方に参るべき間、人質を御請取り候へと申越し候。然る間、村井民部丞・嶋田所之助人質請取りに西美濃へさし遣はされ、未だ人質も参らず候に、俄に(にわかに)御人数出され、井口山のつゞき瑞竜寺山(稲葉山の南麓)へ懸上られ候。是は如何に、敵か味方かと申す所に、早(はや)町に火をかけ、即時に生(はだ)か城になされ候。其日、以の外風吹き候。翌日、御普請くばり(土木工事の分担)仰付けられ、四方鹿垣(ししがき)結ひまわし、取籠めをかせられ候。左候処へ美濃三人衆もまいり、肝を消し御礼申上げられ候。信長は何事もか様に物軽に御沙汰なされ候なり。>
<八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつゞきにて候間、舟にて川内長嶋へ竜興退散。去て美濃国一篇(美濃国全体を支配)に仰付けられ、尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と(井口の旧名は岐阜であるので信長が新しく命名したのでなく旧名に復しただけ)名付けさせられ、明る年の事、(=永禄11年)>
以上は、1567年(永禄10年)4月から8月にかけての織田信長による岐阜攻略における「信長公記」 の全記述(太田牛一「信長公記」四十四 「いなは山御取り侯事」 P80〜81)です。
美濃国の支配者斎藤氏の要害・稲葉山城を斎藤家の家臣(美濃三人衆)の内応を得て攻め落とした織田信長は、直ちに城普請を開始する。井口を旧名の岐阜に戻した信長は、稲葉山城も岐阜城と改め居城とする。信長はこの城を根拠地とし、「天下布武」の朱印を用い、いよいよ天下統一を目指し始める。
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*発掘調査資料等を参照して さらに追加更新する予定です。
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