その歌碑に刻まれた「御(み)目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水」は、1906年(明治39年)9月発航の歌集「愛の華」に収められた晶子の歌(作歌年不明)。朝靄のたなびく右手前方の若王子山から鬱蒼とした山裾の森に佇む南禅寺三門・永観堂禅林寺・知恩院の堂宇、さらに遠く靄に霞む黒谷の聖護院、「辻野旅館」で朝を迎えた晶子の眼にした幻想的ともいえる京都の風景を回想した歌。
*知恩院・聖護院は写真の左枠外。左手前は蹴上浄水場の施設。
1899年(明治32年) 晶子20歳(12月7日に21歳)
与謝野鉄幹(與謝野鐵幹)、白蓮女学校(徳山村)の教師時代の教え子で卒業生の浅田信子(さたこ・明治4 年11月出生=生徒簿より・長女)と同棲。
浅田信子、鉄幹の子ふき子を出産(8月6日)するが約1ヶ月で死去(9月17日私生児として届出)。浅田家(父親=義一郎)の反対を受け疎遠になり離別(10月初旬前に)。
信子はその後、東京に留まり教員資格を得て数十年にわたり各地で教職に就いている。
鉄幹が徳山の白蓮女学校の国漢担当教師になったのは、その経営が徳応寺であり、甥が同寺の住職だったこ とに拠る。
*白蓮女学校は明治23年に私立徳山女学校と改称
10月末 信子と別れた鉄幹は、同じ白蓮女学校出身(明治26年卒業)で2度目の内縁の妻となる林滝野(た きの)と麹町区上六番町45番で同棲(内祝言をあげた後に伴って上京)を始める。
*林滝野の実家は山口県佐波郡出雲村1000番屋敷(現在の徳地町)
11月3日 与謝野鉄幹自ら社幹として東京新詩社を創立。
この年、晶子は浪華青年文学会(後年、関西青年文学会と改称)の堺支会に入会。
1900年(明治33年) 晶子21歳
1月 鳳晶子、浜寺での「関西青年文学会」の新年会に出席(紅一点)。
4月 東京新詩社の機関誌「明星」創刊(主筆・与謝野鉄幹)。発行兼編集人は林滝野(第1〜5号まで)。
「明星」において北原白秋・吉井勇・石川啄木らを見出し、日本近代浪漫派の中心的存在となる。
5月 「明星」2号に鳳晶子、短歌「花がたみ」6首を発表。晶子、「明星」社友となる。
8月3日〜19日 与謝野鉄幹、関西に新詩社の拡大運動を兼ねて講演旅行。
3日大阪に 5日大阪で新派和歌の講演会・歌会
6日浜寺・寿命館で鉄幹の歓迎歌会開催(晶子・登美子参加)
7日神戸で講演会
8日北浜の平井旅館で臨時歌会 晶子・登美子も参加 鉄幹と翌日の散策約す
9日鉄幹・晶子・登美子らで住吉大社を訪れる
10日岡山に
11日岡山講演会
15日再度大阪に 浜寺の寿命館で歌会 鳳晶子・山川登美子も同席
<晶子「十五日、ゆめの如き再会は松青き高師の浜〜」(「わすれじ」より)
*鉄幹は、この間の8月12日か8月16日〜20日のいずれかの日に林滝野の実家のある出雲村を
訪れている。
9月23日 林滝野、鉄幹の子「萃」(あつむ)出産。
9月12日 「明星」6号大刷新。5号までは新聞紙形式のタブロイド版であったが大型の雑誌形式に
替わる。6号から発行兼編集人名が林滝野から鉄幹本人名となる。
10月27日 鉄幹、大阪北浜の旅館「平井」に宿泊。
10月28日 鉄幹、岡山に。岡山支会の盛大な出迎え受ける。「常盤木」に宿泊。
10月28日 鉄幹、朝から雨の岡山後楽園を散策。午後、山陽線に乗車。
10月30日 鉄幹、単独で入籍問題を話し合う為に滝野の実家(山口県出雲村)を訪問。
父親(林小太郎)から離別を宣せられる。林家では鉄幹に養子縁組を望んでいたともいわれる。 11月3日 大阪北浜の旅館「平井」に再度宿泊。
11月5日〜6日 京都・永観堂に紅葉見物。栗田山「辻野旅館」に鉄幹・晶子・登美子の三人で一泊する。
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「辻野旅館」の推定位置。*「与謝野晶子 新潮日本文学アルバム」に旅館見取図が掲載されているが位置は推測。
1900年(明治33年)
11月16日頃 山川登美子、晶子に別れ告げる。
11月27日 「明星」8号発売禁止。
12月 山川登美子、父親から出世頭の山川駐七郎(とめしちろう)との結婚を強いられ、若狭(小浜)の
実家に戻る。
1901年(明治34年) 晶子22歳
1月 晶子、浜寺の歌会(鉄幹出席)に河井酔茗・河野鉄南(堺の覚応寺住職)・宅雁月らと集う。
鉄幹、関西青年文学会(浪華青年文学会が改称)と新詩社神戸支部の合同新年会に出席するため
神戸に。
1月9日〜11日 晶子は鉄幹と二人きりで栗田山「辻野旅館」を再訪(2泊)。晶子の激情の恋は頂点に
達する。
この月より「明星」に晶子の短歌が続々と発表され始める。
3月 「文壇照魔鏡」(鉄幹の不倫に関わる誹謗中傷文)出回る。これにより社友の多くが離脱。
6月 晶子、出奔同様に上京し、「明星」社友の栗島狭衣宅に。その後、渋谷村字(あざ)中渋谷272番
の鉄幹の居宅に身を寄せる。
6月16日 晶子、新詩社歌会に初めて出席。
8月15日 晶子の最初の歌集「みだれ髪」伊藤文友館・新詩社の共版(鳳晶子名で)で刊行。
(「みだれ髪」の表題は、前年(明治33年)の鉄幹の歌「秋風にふさわしき名をまゐらせむそぞろ
心のみだれ髪の君」から)
9月 鉄幹、林滝野と正式離別。
10月 晶子、鉄幹と結婚(木村鷹太郎の媒酌)。
渋谷村字(あざ)中渋谷272番から中渋谷382番に移転。
12月7日 晶子 満23歳に。
若狭(小浜)に帰郷して本家の養子の外交官・山川駐七郎(とめしちろう)と結婚した登美子は、間もなく夫と共に上京する。だが駐七郎は健康上の理由で退官し、貿易会社に勤めたのだが、まもなく先立ってしまう。その後、登美子は日本女子大学英文科に入学するが、2年もすると自らも肺結核を病み、伏見桃山の宇治川沿いの施設で療養生活に入る。明治42年4月13日、登美子の病は回復することなく、若狭の実家で31歳の生涯を終える。晶子は登美子の死に際して、「婿(せ=むこの意)とわれと死にたる人と三人(みたり)して甕(もたひ=棺)の中に封じつること」と悼む歌を残している。鉄幹と晶子と登美子、三人の語られざる秘密は、永遠に棺(ひつぎ)の中に封じ込められたままとなる。
*参考
「与謝野鉄幹伝」桜楓社1984年刊
「与謝野晶子歌集(選)」講談社文芸文庫2008年刊
「与謝野晶子 新潮日本文学アルバム」新潮社1985年刊
「与謝野晶子歌碑めぐり」堺市国際文化部2007年刊
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