一葉が短い一生(24歳)を終えた後、間もなく母親の多喜も過労から亡くなる。残された妹邦子が15年以上も散逸させることなく守り抜いた姉の日記から、苦しい生活ぶりを抜粋してみる。一葉の没年は明治29年11月23日。日記の刊行は明治45年です。
*引用は「全集樋口一葉」小学館版第3巻でページ数も同書のもの
明治25年5月に、菊坂町の路地奥の借家(70番)から話し声が聞こえるほどの距離の借家(69番)に移転した後から、日記には「我家貧困」「衣類質入」「金子の事」等の文字が数多くなってゆく。
<九月一日 母君は鍛冶町(神田)に金子(きんす)かりんとて趣き給ふ。我脳痛いとはげし。(略)午後、母君帰宅。鍛冶町より金十五円かり来たる。午後直に、山崎君に金十円返金に趣き給ふ。>P115
明治26年
<三月卅(30)日 晴天。早朝j国子と少し物がたりす。我家貧困日ましにせまりて、今は何方(いづく)より金かり出すべき道もなし。>P157
<四月三日 空晴れに晴れて、いと心地よし。(略)この夜、伊せ屋がもとにはしる。>P158
最初に「伊勢屋質店」の名称が登場する明治26年4月3日の記述は有名で、一葉関連の解説書には度々引用されている。だが3日前の3月30日の記述にも注目すべきで、方策尽きて困惑してる一葉の様子が伺え「伊勢屋質店」へ走った状況が理解できる。
以降、5月3日<いせ屋がもとに又参り給ふ。>P173 さらに龍泉寺に移転直前の7月10日の日記には、現代でも身につまされる方もいるのではという記述が残されている。数日前より衣類(きもの)の売却に走り回っていた一葉は、<十日 晴れ。田部井より金子(きんす)うけとる(*着物の売却代金)。此夜さらに伊せ屋がもとにはしりて、あづけ置たるを出し、ふたゝび売(うり)に出さんとするなど、いとあはたゞし。>P193 現代風にいうなら、返却期日に元金利息を払って又その場で借りるということ。このページ(P193)には、一葉が売った着物の種類の詳細が注釈付きで記されている。このように金銭を工面した5日後に一葉一家は、下谷龍泉寺に引っ越して行く。
明治26年7月、新吉原の廓(くるわ)を取り巻く「どぶ」に近い下谷龍泉寺368番の長屋で一葉は荒物・駄菓子店を開店する。だが龍泉寺に移った後も菊坂の「伊勢屋質店」(菊坂町32番)まで、一葉は歩きとおし通うのです。8月6日<夕刻より着物三つよつもちて、本郷の伊せ屋がもとにゆく。>P209
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参考
「樋口一葉全集第三巻日記編」小学館1979年刊
「樋口一葉 新潮日本文学アルバム」新潮社1985年
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