2014年03月07日

京都 朱雀大路 東鴻臚館址

元島原遊郭の揚屋・角屋(すみや)(1641年築・下京区西新屋敷揚屋町32番)の板塀に沿って「東鴻臚館址」(ひがしこうろかん)の石柱と説明碑が設けられている。「東鴻臚館」の碑が建つ位置は、かっての広大な東鴻臚館の敷地のほぼ北西角付近と推定される。その敷地は、南北に長い長方形(約350m×約150m)で、北辺は六条大路、南辺は七条大路、西辺は平安京のメーンストリートの朱雀大路(=現在の千本通)、東は坊城小路であった。
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「源氏物語」第1帖<桐壺>に「鴻臚館」の名が登場する。
国学院大名誉教授の今泉忠義氏の訳本から抜萃。
<<その頃来朝した高麗人(こまうど)の中に、すぐれた人相見がいるそうなと帝はお耳になさったが、外国人を宮中にお呼び寄せになることは、宇多天皇の御遺誡(ごゆいかい*外国人の接見の際は、御簾(みす)の内にいなくてはならぬ決り)にも禁じてあるので、随分人目につかないようにして、この若宮をその宿舎の鴻臚館におやりになった。(略)ところが人相見は目を皿のようにして、何度も何度も首をかしげて不審がっている。「この方は国の親となって、帝王という最高の位に当然昇るはずの人相・・(略)」>>
宮中では高麗人の人相占いを受けることができない若宮(光源氏)が、ひっそりと訪れた場所が「鴻臚館」だった。
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時代が下って江戸時代初期(寛永年間)になると「鴻臚館」跡(一部)には幕府公許の遊郭が開設(1641年に六条三筋町から移転)される。遊郭名「島原」は、開設される3年前に鎮圧された島原・天草の乱から冠せられたという説が有力。島原遊郭の全盛期は、元禄15年(揚屋・茶屋を合わせて70軒、太夫だけで38人おり、端女郎まで含めると1019人=「日本遊里史」)で、現在の「角屋」と並ぶ規模の妓楼が軒を並べていた。1854年(安政元年)8月の大火で、島原六町のうち四町が全焼し、ほとんどの揚屋置屋は焼失している(桔梗屋・京橋橘屋・三文字屋・海老屋・丁子屋など寛永年間に建てられた名妓楼群)。
「東鴻臚館址」碑に与謝蕪村の句<白梅や墨芳しき鴻臚館>が併書されているが、蕪村と平安京の鴻臚館の関りというより、その跡地に建てられた揚屋「角屋」との結びつきに由縁するのだろう。「角屋」の主人徳野(とくや)と女郎屋「桔梗屋」の主人呑獅(どんし)は、蕪村の俳友であるとともにパトロンでもあった。この二人は江戸の俳人・炭太祇(たん・たいぎ)の門人だが、後年には蕪村の後援者となっていた。「角屋」には、現在も蕪村の絵画(襖絵)が保存されている。
蕪村には<白梅や墨芳しき鴻臚館>以外に、「白梅」という白色を指定した句がある(全6句)。そのうちでよく知られているのが蕪村辞世の句<しら梅に明る夜ばかりとなりにけり>(参考 「蕪村春秋」高橋治)。
蕪村は晩年、京に在住しており、その一部の住居を記すと、<1768年53歳 四条烏丸東入ル><1771年56歳 室町通綾小路通下ル><1775年60歳 仏光寺烏丸西入ル>。蕪村の墓は、(左京区の)白川通一乗寺から東に入った山裾の金福寺にある。松尾芭蕉が一時寄寓したこともあるこの寺で、蕪村は芭蕉庵を修築し、芭蕉を称える碑を建て、その庵のかたわらの墓で眠りについている。蕪村には妻とも、娘くのがいたが、その墓は見あたらない。
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左側が江戸初期(1641年)に建てられて、ただ一軒残存する揚屋「角屋」。幕末には新選組の面々が度重ねて訪れ、玄関脇に刀傷まで残している。局長・芹沢鴨は暗殺されるその夜、「角屋」で最後の宴を催していた。
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参考
「源氏物語 全現代語訳(一)」講談社学術文庫1978年刊
「平安京の暮らしと行政」山川出版2001年刊
「蕪村俳句集」岩波文庫1989年刊
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posted by t.z at 04:02| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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