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国学院大名誉教授の今泉忠義氏の訳本から抜萃。
<<その頃来朝した高麗人(こまうど)の中に、すぐれた人相見がいるそうなと帝はお耳になさったが、外国人を宮中にお呼び寄せになることは、宇多天皇の御遺誡(ごゆいかい*外国人の接見の際は、御簾(みす)の内にいなくてはならぬ決り)にも禁じてあるので、随分人目につかないようにして、この若宮をその宿舎の鴻臚館におやりになった。(略)ところが人相見は目を皿のようにして、何度も何度も首をかしげて不審がっている。「この方は国の親となって、帝王という最高の位に当然昇るはずの人相・・(略)」>>
宮中では高麗人の人相占いを受けることができない若宮(光源氏)が、ひっそりと訪れた場所が「鴻臚館」だった。
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「東鴻臚館址」碑に与謝蕪村の句<白梅や墨芳しき鴻臚館>が併書されているが、蕪村と平安京の鴻臚館の関りというより、その跡地に建てられた揚屋「角屋」との結びつきに由縁するのだろう。「角屋」の主人徳野(とくや)と女郎屋「桔梗屋」の主人呑獅(どんし)は、蕪村の俳友であるとともにパトロンでもあった。この二人は江戸の俳人・炭太祇(たん・たいぎ)の門人だが、後年には蕪村の後援者となっていた。「角屋」には、現在も蕪村の絵画(襖絵)が保存されている。
蕪村には<白梅や墨芳しき鴻臚館>以外に、「白梅」という白色を指定した句がある(全6句)。そのうちでよく知られているのが蕪村辞世の句<しら梅に明る夜ばかりとなりにけり>(参考 「蕪村春秋」高橋治)。
蕪村は晩年、京に在住しており、その一部の住居を記すと、<1768年53歳 四条烏丸東入ル><1771年56歳 室町通綾小路通下ル><1775年60歳 仏光寺烏丸西入ル>。蕪村の墓は、(左京区の)白川通一乗寺から東に入った山裾の金福寺にある。松尾芭蕉が一時寄寓したこともあるこの寺で、蕪村は芭蕉庵を修築し、芭蕉を称える碑を建て、その庵のかたわらの墓で眠りについている。蕪村には妻とも、娘くのがいたが、その墓は見あたらない。
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参考
「源氏物語 全現代語訳(一)」講談社学術文庫1978年刊
「平安京の暮らしと行政」山川出版2001年刊
「蕪村俳句集」岩波文庫1989年刊
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