荒木村重が信長への旗色を鮮明にした時期から、毛利氏を頼り落ちてゆくまでの7年間の編年史。
(追加・削除多々ある予定です)
1573年(元亀4年 天正元年)
2月 摂津の高槻城城主和田惟長(これなが)は自らの家中の高山飛騨守友照・高山右近
父子の暗殺を計るが失敗し 深手を負い伏見へ逃亡(3月15日死亡説)
池田勝正の家臣(実質的統率者)荒木村重 和田惟長の高槻城を支配する
<この高槻城城内での乱闘を描いた場面が遠藤周作の小説「反逆」(読売新聞連載の新聞小説)で紹介されている。史料として「前野家文書(武功夜話)」1987年刊が駆使されている。現在では史料価値を疑問視(*現代の地名など)する検証も多出しています。別箇所で引用抜粋する司馬遼太郎の小説「播磨灘物語」にも一部で同史料が使用されています。司馬氏は史料を場面ごとに明示しているので、読み比べることも可能です。>
「反逆」(1988年1月〜1989年2月読売新聞連載)から
<使いを受けて高山彦五郎は夕刻高槻城に登城した。父の飛騨守はこの日、持病の頭痛ぼため床に伏していたから、彦五郎は十人ほどの家来を伴って城門をくぐった。燭台の炎が蛾のようにゆれて、和田太郎一人、彼を待っていた。(略)「誰かいるか、酒が足りぬぞ」と人を呼んだ。それが合図だった。館の内部で数人が走ってくる乱れた足音がきこえた。和田太郎は彦五郎が断われば荒木村重に秘密の漏れるのを怖れ、人質にする手筈だった。(略)和田太郎の手の者と彦五郎たちとのあいだに乱戦が開始された。(略)館に馬で駆け戻った彦五郎は血どめの薬を塗らせながら家臣たちに防御の命令を出した。と同時に使いを茨木に走らせ、荒木村重に和田太郎の逆心を知らせた。和田太郎のほうも一度はまだ火に包まれぬ北の丸に逃れたが、その夜、八十名の手の者と伏見に逃げた。だが、出血多量のため伏見の三淵藤英の館で息を引きとっている。>
3月 高山飛騨守友照・右近父子は主のいなくなった高槻城を占拠 荒木村重の指揮下に入る
正式に飛騨守友照が高槻城主と認可されるのは天正2年11月 右近が城主となるのは天正4年
3月29日 織田信長が岐阜から入洛 途上の逢坂で細川兵部太輔(藤孝)・荒木信濃
(村重)両人が信長への忠節を表すため出迎える
信長 東山智恩院に居陣
味方忠節を表す荒木村重に刀剣(郷義弘の作) 細川藤孝に脇差を下賜
4月3日 織田信長 将軍足利義昭と講和を促すため洛外で放火(寺社を除く)
4月4日 上京に放火し義昭を二条城に囲む 天命により義昭は講和受ける
4月12日 武田信玄 三河・野田城攻囲の陣中で病に倒れる 武田軍撤退
7月7日 信長入洛 二条妙覚寺に着陣 信長の大軍に公家衆驚き侘を入れ人質を出す
7月16日 信長 宇治に出陣 平等院門前で勝音を上げる
8月8日 信長 夜間に近江に出陣 月ヶ瀬城占領
8月10日 信長 越前への通路遮断 朝倉義景軍2万余が余呉・田部一帯に布陣
12日 信長嫡男の信忠 虎後前山に陣 信長は風雨激しい中 自ら朝倉方の
大嶽砦を奇襲攻略(大づくの下やけを=焼尾)
13日 信長 平泉寺玉泉坊の籠る丁野山砦(ようのやま)を攻略
夜 朝倉義景軍敗走 信長馬廻衆が先頭にたち朝倉義景を追撃
信長に先を越された諸将(滝川・柴田・丹羽・木下秀吉ら)は激しく
叱責を受ける 以降 敦賀まで11里の追撃戦で頸数3千余討取る
「信長公記」は見知った頸名を列記している
濃州(斎藤)龍興・山崎肥前守・山崎自林坊・らの名が残されている
8月15日 義景 一乗谷に帰還 信長は14〜16日敦賀に滞陣
8月17日 信長軍木目峠越える 義景は一乗谷の館から東雲寺に逃れる
信長に忠節を願い出た平泉寺僧衆が東雲寺を襲撃
8月18日 朝倉義景 朝倉景鏡の勧めで大野郡賢松寺に退く
信長は府中竜門寺に陣
8月20日 朝倉景鏡が織田に通じ朝倉義景を襲う 義景(41歳)自刃 朝倉家滅亡
長谷川宋仁に命じ朝倉義景の頸を京都で獄門に
8月26日 織田信長 北近江虎後前山に着陣
8月27日夜 秀吉 浅井長政の近江小谷城京極丸占領し浅井父子の連絡分断
8月28日 信長自ら京極丸に入る 浅井父子自決
浅井父子の頸を京都で獄門に 浅井の嫡男10歳を関が原で磔(はりつけ)
信長 秀吉に浅井遺領三郡の朱印を与える 秀吉初めて一城の主となる
9月6日 信長 岐阜に帰陣
9月24日 織田勢この日より北伊勢に出陣 四日市・桑名を席巻 桑名に滝川左近を入れ置く
10月26日 岐阜に帰陣
1574年(天正2年)
1月1日 織田信長 岐阜城で隣国面々の新年の出仕受ける
酒宴で他国衆退出の後、前年に討取った浅井父子・朝倉義景の首(こうべ)を
檜の白木の台にのせ酒の肴にする
<信長の残虐性の論証の核となる事実 三つの骸骨は漆で固められ金泥で薄く彩色>
1月27日 甲斐・武田四郎勝頼 岩村に出張る また明智城を攻囲(恵那郡)
2月5日 信長父子 みたけに出陣(可児郡)
2月24日 信長岐阜に帰城
3月12日 信長上洛 初めて相国寺に寄宿(内裏に奈良東大寺蘭者待を所望する)
3月24日 相国寺で茶会(茶頭は松井友閑)
3月27日 信長 東大寺の蘭者待の切取り実行 奉行は松井友閑(=宮内卿法印)ら
3月 秀吉 朝廷から従五位下・筑前守を賜り木下姓から羽柴に改姓 近江長浜城に入城
4月2日 石山本願寺の顕如光佐挙兵 織田信長の属城を攻める
5月5日 信長 賀茂祭(葵祭)例祭に
7月13日 信長父子 伊勢長島一揆の鎮定に出陣 9月まで一揆勢を攻囲し過半を餓死させる
9月末 一揆勢の籠る中江城・屋長嶋城を幾重に柵で取籠め男女2万人を焼殺す
9月29日 織田信長 伊勢長島の一揆を鎮定 岐阜に帰る
11月15日 荒木村重 直接 織田と結び台頭 和田と姻戚関係にある伊丹親興と敵対する
伊丹親興の伊丹城を占拠し 城名を在(有)岡城と改める 村重に摂津一職委任
この頃
この頃、古田重然(しげなり=織部) 荒木村重の与力に
1575年(天正3年)
3月3日 織田信長入洛 前年より相国寺に寄宿するようになる
3月23日 山城守護塙直政(ばんなおまさ)大和守護との兼務命じられる
4月 信長の大軍 大坂に出陣 4月12日住吉に本陣 13日天王寺に出馬
4月19日 三好三人衆とともに織田に抗した三好康長が降伏(松井友閑仲介)
友閑はこの頃 頻繁に津田宋及らの茶会に出席
4月28日 信長 岐阜に帰城
5月13日 信長 長篠に出陣 熱田に陣 14日岡崎に
鉄砲奉行は塙直政・佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝
5月21日 織田信長・徳川家康連合軍 三河長篠に武田四郎勝頼を破る
5月25日 信長 岐阜に帰城
7月 信長 勢田(瀬田)に大橋を架橋
7月3日 信長 官位昇進の勅諚を辞退 以後 家臣の官位は勅許される
明智光秀は惟任日向守に 丹羽長秀は惟住 塙直政は原田備中守に
秀吉は筑前守に 村井貞勝は長門守に
9月 荒木村重が信濃守から摂津守に任官
信長の村井貞勝宛て書状(天正3年8月17日付け)には未だ「荒木信濃守」使用
10月21日 本願寺顕如光佐 信長に講和求める
10月20日 播磨の赤松・小寺・別所ら信長に謁見
1576年(天正4年)
1月中旬 信長 安土築城普請命じる
2月23日 信長 安土城巡察 岐阜城より移る
馬廻衆に安土山下に屋敷与える
4月1日 安土城天主普請始まる
4月14日 本願寺顕如光佐 前将軍足利義昭(備後に在所)や毛利氏と呼応
再び挙兵 これに対応し信長は荒木攝津守村重・明智光秀・原田備中ら4人
に命じ、大坂に推詰める 荒木は尼崎から海路 北野田に入り 砦を築き
川手の通行を遮断 原田備中は天王寺砦に入る
5月3日 石山本願寺勢が1万の軍勢で押出し 数千挺の鉄砲で信長軍を攻撃
原田備中(塙直政)・塙喜三郎・塙小七郎・丹波小四郎ら織田勢の諸将が討死
原田備中は三津寺砦攻略中に討死(雑賀衆・鈴木重秀に討ち取られた伝わる)
織田家の十指に入る原田備中(塙直政)が戦死してしまう(享年不明)
5月5日 石山本願寺での壊滅的打撃に信長 僅か百騎で猛然と出陣
5月7日 信長 住吉口で3千の手勢を三段に構え 1万5千の本願寺勢に立向かう
信長は先手の足軽隊に混じり奮戦し手傷を負い さらに足に鉄砲玉を受ける
この時 荒木村重は先陣を命じられるが拒否し 木津口の押えを担う
信長は戦死した原田備中(塙直政)の郎党に冷酷は処置を命じる 直政の部下を罪人として捕縛 5月15日信長は大和国を筒井順慶に委ねる
7月15日 毛利輝元の水軍 大船7〜8百艘でほうろく・火矢を使い織田水軍を破り
兵糧を石山本願寺に運ぶ込む
1577年(天正5年)
2月13日 織田信長 淀川渡河し八幡に陣 紀伊雑賀衆攻撃
3月1日 織田軍 雑賀鈴木孫一居城攻撃
7月6日 織田信長上洛 京都二条の御新造に移る(旧二条晴良邸跡)
8月8日 柴田勝家を総大将にして織田軍は北陸に出陣(秀吉は許可なく戦線離脱)
8月17日 松永久秀 石山本願寺包囲の付城(天王寺)での定番を放棄し
内信貴(奈良県生駒郡)に立て籠もり信長に叛く
10月10日夜 織田信忠軍 大和信貴山城を攻囲し松永久秀は煙硝(火薬)に着火させ焼死
10月19日 信貴山城を攻囲から戻った秀吉軍 播磨へ向け安土進発
10月23日 秀吉 京都を進発し播磨に出陣 花隈城に着陣
播磨の担当を荒木村重から秀吉に受け渡す
10月28日 秀吉 播磨中から人質を奪う
この頃 黒田官兵衛は居館(姫山)を秀吉に譲り渡す
11月27日 秀吉 西播磨に布陣 上月城周辺に放火・占拠
上月城城番に尼子衆の山中鹿介を入れる(約7百名)
竹中半兵衛と黒田官兵衛の指揮する部隊は佐用城を攻撃占拠
12月 荒木村重 翌年3月まで盛んに茶会催す 津田宋及の茶会に頻繁に出席(「宋及記」)
1578年(天正6年)
1月1日 安土城に各国各将出仕 信長に新年祝辞
朝茶は十二人に 首座は嫡子織田信忠・僧形の二位法印(前田玄以)・林佐渡守通勝・
滝川左近・永岡兵部大輔・明智光秀・荒木攝津守村重・長谷川与次・羽柴筑前秀吉・
細川藤孝ら 茶頭は松井友閑
2月23日 羽柴秀吉軍7千5百名 播磨に出陣
2月29日 信長 安土で江州国中の相撲取り300人集め相撲見物
3月 上杉謙信49歳で没す
3月12日 毛利軍各所から播磨に向け一斉出陣3万5千余の大軍
3月28日 秀吉軍 三木城攻囲 野口城攻撃
4月中旬(「信長公記」に中旬とある)毛利連合軍約5万余 尼子勝久の上月城包囲する
4月4日 織田信忠指揮の織田軍 大坂に出陣
<この頃 増援の荒木村重勢が秀吉軍に参陣 荒木村重は昨年以来の久々の出陣
上月城後巻きとして高倉山(佐用郡南光町)に陣を構える>
5月1日 織田信忠軍 播磨に入る
5月6日 織田信忠軍 明石近辺に達する 先陣は神吉城・高砂・志方に野陣
6月10日 織田信長上洛 祇園会見物(14日) 馬廻・小姓衆軽武装の御諚
6月16日 秀吉 供回り50騎余で隠密裏に上洛 信長から陣引払いの許可得る
6月26日 秀吉 高倉山から撤退し書写山に移動 上月城見殺しに(尼子勝久自刃)
<6月下旬 秀吉は播磨から但馬平定に部隊を移動>
7月16日 神吉(かんき)城の天主焼け落ち焼死多数 西の丸は荒木村重が攻撃
城主神吉長則斬殺 検使役は信長の小姓・万見千千代
7月 三木城の別所小三郎長治を攻囲する羽柴軍に参陣していた荒木村重が戦線離脱
荒木は離脱後 有岡城に帰城 この頃荒木による石山本願寺への兵糧搬入の噂流れる
8月15日 安土の相撲会 奉行・信長側近の万見千千代
8月17日 三木城包囲の秀吉勢8千のみを残し織田信忠軍撤退
9月29日 信長 住吉社家に
9月30日 信長 堺の津へ下向 今井宋久邸へ 万見千千代供奉
10月1日 信長上洛 二条御新造に
<後年、10月17日付け本願寺光佐の起請文が発見され、荒木村重の反逆は
本願寺への糧食搬入よりかなり以前からと判明 村重の新知行地は毛利氏庇護下
にある足利義昭の命に従うようにと書かれている>
10月21日 荒木村重逆心の報が各所より信長に入る
<不実に思食され、何篇の不足候哉、存分を申上候はゞ仰付けらるべきの趣にて、
宮内卿法印(松井夕閑)・惟任日向守・万見仙千代を以て・・・(略)>
(「信長公記」P254より)
信長 荒木の元に福冨直勝・佐久間信盛・万見仙千代重元を糾問派遣し慰留工作
11月3日 信長上洛 明智光秀・松井夕閑・秀吉が荒木の慰留に努めるが従わず
荒木村重が石山本願寺への手土産に織田方の付城目付の信長近臣を殺すと
いう風聞がたつ
11月6日午後 木津表にて毛利水軍6百余艘と織田方九鬼水軍が舟戦
九鬼水軍6艘の大船に多数の大鉄砲を装し引付けて一斉射撃
毛利水軍の将船を沈める
<この頃 黒田官兵衛が荒木村重の有岡城を訪れ幽閉される>
小説「播磨灘物語(三)」司馬遼太郎から 黒田官兵衛が伊丹で幽閉される場面を抜粋
<御着城を出た官兵衛は姫路へも寄らず、父の宋円には手紙だけを送り、そのまま摂津の伊丹をめざした。(略)伊丹の城下に入った。戸数は五百軒もあるであろう。(略)官兵衛が有岡城の城門で番卒に名前と用向きを告げると、騒然となった。人数が出てきて官兵衛をとりまき、一人が背後から組みつき、他の者が官兵衛の腰の物をうばい、さらに別の者が縄を打った。(略)牢というのは城の西北の隅にある小さな独立建造物で、深いひさしが陽を遮っている。。(略)羽柴秀吉は京都から播州の陣にもどって、官兵衛の異変をきいた。>
11月9日 信長 摂津国山崎に出陣
荒木村重陣営は摂津各地で籠城 中川清秀(茨木城)・高山右近(高槻城)
・嫡子荒木村次(尼崎城)・荒木志摩守(花隈城)・荒木重堅(三田城)ら
古田織部は荒木村重の元を離脱
11月9日 織田信長軍の滝川左近・明智光秀らが中川清秀の茨木城を包囲
高槻城の切支丹門徒・高山右近は信長の「伴天連宗門を断絶」の強迫に屈服
高山右近は父親飛騨守(洗礼名ダリヨ)と決別し信長に投降
11月14日 織田の諸軍 伊丹に進撃 武藤宋右衛門の配下が有岡城で交戦
有岡城周辺に放火
11月16日 高山右近 郡山の信長の本陣を訪れ拝謁 小袖・馬を下賜される
父飛騨守(洗礼名ダリオ)は投降に反対姿勢崩さず(落城後は越前に配流)
ダリオ飛騨守は天正9年4月越前を訪問の宣教師フロイスを歓待
11月24日 中川清秀 茨木城を明け渡す 従兄弟にあたる古田重然(織部)尽力する
以降 茨木城警固役に古田重然・福富秀勝が置かれる
11月28日 信長 自ら有岡城東辺に出陣
堀秀政・万見仙千代重元の部隊は甲山(かぶとやま)に籠もる百姓を切る
12月4日 織田方の滝川一益・丹羽長秀の軍勢 兵庫一ッ谷(神戸須磨区)を焼き払う
「人数打返し、伊丹を押へ、塚口の郷に在陣なり」(「信長公記」巻11)
滝川一益・丹羽長秀軍 塚口に布陣し有岡城の南方を固める
荒木一族の荒木志摩守元清は花隈(鼻熊)城に籠城(滝川・丹羽軍が攻囲)
12月8日 織田方の堀久太郎秀政・万見仙千代重元・菅屋長頼の三将を奉行に鉄砲隊が
有岡城に乱射・一斉攻撃 また弓衆が三手より火矢を町屋に放ち放火する
この夜間攻撃で万見仙千代重元・水野忠分(ただちか)が討死
以後 有岡城兵糧攻めに作戦転換する
12月11日 織田信長 有岡城東方の猪名(いな)川対岸の古池田に本陣構える
「信長公記」巻11に御取出御在番衆の名が記述
塚口郷(丹羽長秀・蜂谷兵庫・高山右近・神戸信孝ほか)
毛馬村(尼崎市食満)(織田上野守・滝川左近・北畠信雄ほか)
倉橋郷(豊中市三屋)(池田勝三郎ほか)
原田郷(豊中市原田)(中川瀬兵衛ほか)
刀根山(稲葉伊豫・氏家左京助ほか)
郡山(津田信澄)
古池田(塩川伯嗜)
賀茂(川西市加茂)(織田信忠)
等々
1579年(天正7年)11月19日、守将・荒木久左衛門は、尼崎城に脱出していた荒木村重の説得と有岡城の将兵・家族の助命のために開城する。その際、正室「たし」が詠んだ歌を村重の元に届けていた。
だし<霜がれに残りて我は八重むぐらなにはのうらのそこのみくずに>*みくず=水屑
村重返歌<思ひきやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは>
「信長公記」巻12より
12月21日 織田信長 古池田の本陣より入洛
12月25日 信長 安土城に帰る
1579年(天正7年)
1月1日 安土城への出仕は各将伊丹表在番でなし
1月23日 有岡城攻撃で討死した小姓・万見千千代の安土城内の邸を長谷川秀一に譲渡
3月7日 信長 鷹狩をしながら古池田に帰陣
4月18日 荒木村重の籠城方 足軽が討って出て西方の織田方攻囲軍(稲葉彦六)と合戦
「信長公記」巻12<二重・三重堀をほり塀柵を付け手前々々堅固に申付けられ候>
4月 攻囲配置転換で原田砦から中川清秀・古田左介(織部)が田中砦守備に
5月11日 安土城天主閣が完成し吉日の11日に移る
この年 宣教師オルガンチノが安土に寺院建立
<荒木村重 毛利に救援依頼送る 5月27日付け・6月4日付け催促状>
7月3日 伊丹在陣の武藤宋右衛門が病死
7月19日 明智光秀 丹波を平定する
9月2日夜 荒木村重が供回り5〜6名を連れて有岡城を脱出して嫡子荒木村次新五郎の
籠城する尼崎城に入る 毛利援軍の桂元将が詰めている
荒木村次の正室は明智光秀の娘(さと)だったが謀反直後に離別し光秀に送り返す
9月14日 織田信忠を総大将にして伊丹包囲の半数を召し連れ尼崎城を包囲
七松に付城(砦)2箇所を築く 定番に塩川伯耆国満・高山右近を置く
9月28日 織田信長 帰洛
10月8日 滝川(左近)一益配下の佐治新介が有岡城城内に調略(寝返り工作)
荒木方の中西新八郎の寝返り誘う
10月15日 上臈塚砦(女郎塚)で荒木方の足軽大将(星野・山脇・隠岐・宮脇)謀反
滝川勢が城内突入 城と町との間の侍町ひ放火し裸城に 城内の各砦攻め落とす
「信長公記」巻12<諸手四方より近々と推詰め、城楼、かねほりを入れ、攻められ、
命御助けなされ候へと御詫言申候へども、御許容これなし>
11月3日 信長上洛 以降 北野・東山・一乗寺・修学寺山で鷹狩
11月19日 有岡城守将・荒木久左衛門が降伏開城 有岡城陥落する
織田信澄が入城し有岡城を占拠 城内の婦女子を人質に捕える
荒木久左衛門は荒木村重・村次父子の籠る尼崎城に投降の説得に
<黒田官兵衛 有岡城から救出される>
<高山右近が差し出した人質(嫡男・妹)を救出>
12月13日 尼崎・七松で荒木方の人質5百十余人を磔(はりつけ)・焼き殺し
内身分の高い122人を鉄砲・槍・長刀で殺害 焼き殺しは家4軒に閉じ込め放火
<一同が続いて十字架に磔にされた後、刑吏たちは下から、あるいは銃弾をもって、または槍で彼女らを
殺した。(略)第三の処刑はさらに比較にならぬほど残酷で非人道的、かつ恐怖すべきものであった。
四つの平屋が作られ、それに五百十四名が分けて入れられた。それらのうち、三百八十名は婦人で、
百三十四名が男たちであった。そこで大量の乾燥した草、柴、木材が集められ、これに放火して彼ら
全員を生きたまま焚(殺)した。(略)この火刑とその責苦から、右近の父ダリオ、ならびにその娘と
孫だけが免れるように命ぜられたことは、主のいとも偉大な御手の守護による破格の取計らい・・>
「フロイス日本史3」第50章より
*現在、東海道本線尼崎駅の西隣駅・立花駅の東南近辺が「七松町」「南七松町」「東七松町」です
12月16日 荒木女房・妹らが牛車1両に2人づつ乗せられ洛中を引き回される
二番車に荒木妻だし21歳と荒木娘15歳 一番車に荒木弟 妹17歳
三番車に荒木娘だご13歳ら荒木の一門・親族ら37人
上京一条辻より室町通りを引き回し六条河原に至り数百人の雑役人・
賎民による警備の中 処刑斬殺
「信長公記」巻12<たしと申すはきこへある美人なり。古しへは、かりにも
人にまみゆる事なきを、時世に随ふならひとて、さもあらけ(略)>
宣教師フロイス<荒木の妻は天性の美貌と貞淑さの持主で、顔に大いなる
安らぎを示していたが、車からおりる前、乱れた髪を結びなおし、腰帯を
しめ幾重にも重ねた高価な衣装をまとった」>
1580年(天正8年)
3月 尼崎城落城 荒木村重・村次父子は尼崎より舟で毛利領に脱出
荒木村重は前年12月に花隈城を脱出したとも謂われる 嫡子村次はその後、
秀吉に仕え、天正11年4月の賤ヶ岳の戦に参加・負傷している。
「信長公記」には六甲山から突き出す丘陵を表す「鼻」があてられている。「摂津花熊之城図」に描かれる本丸西北隅の「天守」の位置には現在、福徳寺がある。東南隅には「櫓」が示されている。北側に段状に二ノ丸、三ノ丸と配置されていた。
閏3月 織田信長 高山右近に安土の屋敷地を下賜
7月 荒木志摩守元清の花隈城 池田恒興の攻城により落ちる
毛利領に舟で落ち延びた荒木志摩守元清は、1610年(慶長15年)5月23日
に没している
織田信長の本能寺での没後、毛利領の備後尾道に棲んでいた荒木村重は、秀吉に許され、堺に移住。天正11年1月〜2月に津田宋及の茶会に頻繁に招かれている。同年9月16日には豊臣秀吉の茶会に招聘されている。同年10月27日付けの光源院宛書状で「筆庵道薫」と署名。庵号が筆庵(ひつあん)、法名が道薫(どうくん)。(「宋及記」) 荒木村重は、1586年(天正14年)5月4日に堺で没した(52歳)。
荒木村重は千利休の高弟を指す後年の呼称「利休十哲(じってつ)」に名を連ねている 筆頭は蒲生氏郷・細川忠興・古田織部・芝山監物・瀬田正忠・高山右近・牧村兵部利貞・織田有楽斎・千道安(利休の子)・荒木村重
南宗寺(なんしゅうじ)には 千利休一門の供養塔・三好一族の墓・津田宗及一門の供養塔・徳川家康の墓(伝)などが広大な境内に配されている 方丈に接して茶室・実相庵(1963年の再建)が置かれ 茶会には近くに実家があった与謝野晶子も訪れている
参考
「日本城郭体系12」1981年刊
「戦国合戦大事典6」(京都・兵庫・岡山)1989年刊
「フロイス日本史3」中公文庫2000年刊
「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館1995年刊
「播磨灘物語」司馬遼太郎1978年刊
「反逆」(上・下)遠藤周作1991年刊