2014年04月15日

大阪 宗右衛門町界隈 池波正太郎「大阪ところどころ」より

雑誌「太陽」に連載された「散歩のとき何か食べたくなって」(平凡社1977年刊)の一章「大阪ところどころ」で紹介された店舗の跡を巡ってみる。池波正太郎が定宿としていた「大宝(だいほう)ホテル」、その並びの菓子舗「友恵堂(ともえどう)」、時の流れに沈みこみ、その姿はすでに認められない。
「大阪ところどころ」より
<私の常宿は、道頓堀川に架かる相合(あいおい)橋を北へわたった右側にある〔大宝ホテル〕という小さな宿であったが、この宿の居心地のよさは、たとえば、寝具にかけてあるカバーというカバーは客がだれであっても、毎夜かならず、クリーニングに出したものと替えてくれるし、食事は自由、昼夜ぶっ通しに玄関を開けておいてくれるという、本格のホテル同様の便利さがあって、芝居関係の人びとには何よりだった。後年、芝居の仕事をはなれ、小説の世界へ入ってからも、私は三月に一度は大阪へ出かけた。それというのも、この定宿があったからだが、現在は〔グリーン・ハウス〕という貸しビルになってしまい、おかみさんも京都へ引きこもってしまい、主人(あるじ)はいま、貸しビルの社長になってしまった。>
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相合橋上から西方に道頓堀川の夜景を望む。右側が宗右衛門町。右方向に「大宝ホテル」があった。
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池波が紹介するように、現在は貸ビル「グリーンハウス」と名を変えている。写真右側の照明が煌くビルがかっての「大宝ホテル」。 (右写真)かっての「大宝ホテル」もこの幅であっただろう。

<この宿の朝飯は、かならず食べた。前日に道頓堀の〔さの半〕という百年もつづいた蒲鉾屋へ寄って、大阪では〔赤てん〕という、すなわち〔さつま揚げ〕を買って来て宿の台所へ行き、「明日の朝、ちょっと焙って、大根おろしといっしょに出しておくれ」と、女中にたのんでおく。>
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 宇野浩二(店名は出てこない)・上司小剣(「鱧の皮」)・織田作之助(「夫婦善哉」)らの作品にその名を残す蒲鉾屋「さの半」は、2002年(平成14年)に閉店。ビルの2階部分に看板のみが残っている。 (右写真)道頓堀通り(奥が御堂筋方向)。左側に「さの半」の看板が見える。右の赤いビル(金龍ラーメン・かっては鰻のいづもや)の角を右折すると相合橋。中国人の団体観光客らで混雑する通りだ。 

池波正太郎の筆は、「大黒のかやく飯」(この店は映画監督・小津安二郎関連でアップ予定)、「喫茶店サンライズ」、笠屋町の寿司店「みのや」、船場の「丸冶」、法善寺横丁の焼鳥屋「樹の枝」と描き出す。
<道頓堀の東の外れにある関東煮(だき)の〔たこ梅〕は、いまや有名になりすぎてしまったけれども、だからといって、亭主の商売の仕方はむかしと少しも変わらぬ。ここへ飛び込むのも〔樹の枝〕同様のタイミングが必要だった。>
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(左写真)現在も当時と同じ場所で営業を続ける関東煮とたこ甘露煮を名物とする「たこ梅本店」。 (右写真)「たこ梅」の軒に下がる提燈に書かれた名物「関東煮」。「たこ梅」の創業は、江戸期の1844年(弘化元年)、弘化元年は12月に天保から改元されたので12月の創業であろう。

池波正太郎は、焼鳥屋「樹の枝」や道頓堀「たこ梅」に座れぬ場合は、千日前の織田作の作品で有名になった「自由軒」の近くに店を構える大阪食堂「重亭」(現在も営業中)へ足を向けた。
<安い。うまい。今度、十何年ぶりで重亭へ行ってみたが、その良心的なこと、もてなしのよさは、むかしと少しも変わらぬ。もてなしぶりの形こそ違え、これまた〔樹の枝〕同様に立派なものだ。いかにも大阪洋食風のソース(むしろタレといいたい)がとろりとかかったビーフ・ステーキのやわらかさ、その肉のよろしさに、私は満足した。>
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「重亭」も池波が訪れた当時と同じ位置で営業中。精華小学校(閉鎖解体中)の東側路地(精華通り)に暖簾を出す洋食「重亭」。

「大阪ところどころ」の終節は、池波の定宿「「大宝ホテル」の並びにあった菓子舗「友恵堂」(ともえどう)を紹介している。池波が再訪した当時は未だ営業を続けていたのだが・・。
<大宝ホテルから程近い菓子舗の〔友恵堂〕も、その一つである。この老舗の菓子の、甘味の程のよさは、大阪という町の、むかしの姿をしのばせるに足るものがある。餡に塩味がする。甘味に塩の香りがただよっている。最中もよいが、私が好きなのは求肥(ぎゅうひ)に砂糖をまぶした益壽糖(えきじゅとう)であり、薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)である。大阪に滞在していて、どこかへみやげを持って行くときは、きまって友恵堂の菓子にしたものだった。>
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(左写真)相合橋から宗右衛門町の大宝ホテル・友恵堂を見る。 (右写真)友恵堂が店を構えた付近(右端あたり)。文庫版巻末の資料ページの友恵堂の住所は空欄だが、大阪市電話番号簿(戦後版)に広告付きで掲載されている。コピー禁止資料なのでアップは不可。電話は南0832と5802であった。住所は南区宗右衛門町7番(下図参照)。
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(左写真)京都・二条通で現在も営業する友恵堂から借用。 (右写真)宗右衛門町の友恵堂の名は、西心斎橋の八幡にのみに残っている。
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地図は南区(現中央区)昭和29年版を参照。 引用は池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」新潮文庫1976年版を使用。

池波正太郎リンク
京都 池波正太郎「食べ物日記・昭和43年版」(十二月の年末旅行から) http://zassha.seesaa.net/article/410379326.html
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posted by t.z at 02:56| Comment(2) | 大阪osaka | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 私は、真田信之氏が好きで上田に行って来たのですが12月京都に行くのですが、池波正太郎さんの行きつけの、場所があったら教えて下さい。私は、糖尿病の為、食事は無理なんです。写真を撮りに行こうと思って居るんで良い風景が有りましたら、教えて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。
Posted by 磯部良彦 at 2019年10月31日 16:06
磯部さんコメありがとうございます。現在体調不良で更新停滞中です。池波正太郎の京都関連では祇園石段下のうどん初音(閉店)とイノダコーヒー本店をアップ済みで、その他では三条小橋東角の寿司松鮨(移転)、寺町二条の洋菓子店村上開新堂があります。祇園界隈では宮川町茶屋街が短編「元禄色子」の舞台、祇園南部の料亭由良之助、祇園北部四条通北入(細路地)の盛京亭、川端団栗橋東詰の蛸長が通った店として有名です。
Posted by 管理人 at 2019年11月01日 07:57
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