「大阪ところどころ」より
<私の常宿は、道頓堀川に架かる相合(あいおい)橋を北へわたった右側にある〔大宝ホテル〕という小さな宿であったが、この宿の居心地のよさは、たとえば、寝具にかけてあるカバーというカバーは客がだれであっても、毎夜かならず、クリーニングに出したものと替えてくれるし、食事は自由、昼夜ぶっ通しに玄関を開けておいてくれるという、本格のホテル同様の便利さがあって、芝居関係の人びとには何よりだった。後年、芝居の仕事をはなれ、小説の世界へ入ってからも、私は三月に一度は大阪へ出かけた。それというのも、この定宿があったからだが、現在は〔グリーン・ハウス〕という貸しビルになってしまい、おかみさんも京都へ引きこもってしまい、主人(あるじ)はいま、貸しビルの社長になってしまった。>
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<この宿の朝飯は、かならず食べた。前日に道頓堀の〔さの半〕という百年もつづいた蒲鉾屋へ寄って、大阪では〔赤てん〕という、すなわち〔さつま揚げ〕を買って来て宿の台所へ行き、「明日の朝、ちょっと焙って、大根おろしといっしょに出しておくれ」と、女中にたのんでおく。>
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池波正太郎の筆は、「大黒のかやく飯」(この店は映画監督・小津安二郎関連でアップ予定)、「喫茶店サンライズ」、笠屋町の寿司店「みのや」、船場の「丸冶」、法善寺横丁の焼鳥屋「樹の枝」と描き出す。
<道頓堀の東の外れにある関東煮(だき)の〔たこ梅〕は、いまや有名になりすぎてしまったけれども、だからといって、亭主の商売の仕方はむかしと少しも変わらぬ。ここへ飛び込むのも〔樹の枝〕同様のタイミングが必要だった。>
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池波正太郎は、焼鳥屋「樹の枝」や道頓堀「たこ梅」に座れぬ場合は、千日前の織田作の作品で有名になった「自由軒」の近くに店を構える大阪食堂「重亭」(現在も営業中)へ足を向けた。
<安い。うまい。今度、十何年ぶりで重亭へ行ってみたが、その良心的なこと、もてなしのよさは、むかしと少しも変わらぬ。もてなしぶりの形こそ違え、これまた〔樹の枝〕同様に立派なものだ。いかにも大阪洋食風のソース(むしろタレといいたい)がとろりとかかったビーフ・ステーキのやわらかさ、その肉のよろしさに、私は満足した。>
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「大阪ところどころ」の終節は、池波の定宿「「大宝ホテル」の並びにあった菓子舗「友恵堂」(ともえどう)を紹介している。池波が再訪した当時は未だ営業を続けていたのだが・・。
<大宝ホテルから程近い菓子舗の〔友恵堂〕も、その一つである。この老舗の菓子の、甘味の程のよさは、大阪という町の、むかしの姿をしのばせるに足るものがある。餡に塩味がする。甘味に塩の香りがただよっている。最中もよいが、私が好きなのは求肥(ぎゅうひ)に砂糖をまぶした益壽糖(えきじゅとう)であり、薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)である。大阪に滞在していて、どこかへみやげを持って行くときは、きまって友恵堂の菓子にしたものだった。>
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池波正太郎リンク
京都 池波正太郎「食べ物日記・昭和43年版」(十二月の年末旅行から) http://zassha.seesaa.net/article/410379326.html
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