田口ランディの短編「縁切り神社」の冒頭から
田口ランディ氏(女性)の描くストーリーはその絵馬から展開してゆくが、この神社を訪れる(近所を通る)たびに、別の「なにかの不気味さ」を感じてしまう。地の底に潜む「不気味な何か」が伝わってくる。かすかに揺すられるような「震動」を感じてしまうのは自分だけであろうか。その震動は、本殿の北方150mに置かれた崇徳天皇の御廟(遺髪塚)から安井金比羅宮(崇徳上皇を祀る)に至る地中に潜む崇徳上皇の「怨霊」が起こしているのだと確信する。
自分「なんか揺れてるよな?」
Eちゃん「工事やってないし、バスが通るせいやな、」
1156年(保元元年)7月、朝廷の内紛から武力衝突が起こる。崇徳(すとく)上皇は後白河天皇との戦いにわずか一日の戦いで敗れ去る(保元の乱)。敗れた崇徳上皇は仁和寺に出頭、乱から10日後には讃岐(四国)へ配流となる。崇徳上皇は再び都へ戻ることなく、1164年(長寛2年)8月26日に46歳で崩御する(暗殺説あり)。遺骸は火葬された後、白峯陵(香川県坂出市青海町の白峰山山頂の崖際)に葬られるのだが、上皇の怨念はすさまじく、高屋神社の辺りで棺(ひつき)からは血がにじみだし「血の宮」となり、火葬された遺煙は山麓にさまよい「煙の宮」(青海町稚児ヶ嶽の麓)を作りだす。翌年、讃岐の金毘羅宮は崇徳上皇の霊を祀るのだが、4年後の仁安3年、崇徳上皇に仕えていた西行法師(法名は円位)が荒廃した白峯陵を詣でた際、崇徳上皇の怨霊が悪魔の形相で現れ、西行と激論をかわす(「雨月物語」巻之一 ちくま学芸文庫版P38にその場面の挿絵あり)。1177年(安元3年)になると都周辺は不穏な状況となり、崇徳上皇の怨霊が問題視され始める。前年から後白河院に近い人々の死が頻発し、この4月には京都の大火により大極殿が焼け落ちてしまう。1185年(寿永4年)ついに崇徳上皇の怨霊(私怨)は、西の海(壇ノ浦)に平氏一門を漂わせ滅ぼしてしまう。崇徳上皇が西行に語った予言はすべて歴史の真実となったのだ。かって崇徳上皇に仕え寵愛された阿波内侍(あわのないし)が、上皇の遺髪を貰い受け、塚を築き納めたその場所が、白峰神宮が管理する上記の崇徳天皇御廟(祇園新地甲部歌舞練場の裏手)といわれる。安井金毘羅宮を訪れるなら「崇徳上皇御廟の説明板」も必読なのだと強調する。 *上田秋成「雨月物語」(安永5年刊)の「白峯」を参照
Eちゃん「ねえ、わかったから、早く縁切り縁結びのとこいこう」
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参照
田口ランディ「縁切り神社」(短編集)幻冬舎文庫2001年刊
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実のところ「旧中山道の縁切榎」はまったく忘れていました。