2014年04月20日

京都 東山 縁切り縁結び碑(いし) 安井金毘羅宮

<京都の町をそぞろ歩いていたら、奇妙な神社に迷い込んだ。「安井の縁切り神社」という看板が出ている。なんだろうと思い、赤い鳥居をくぐって境内に入っていくと、玉砂利を敷き詰めた細長い空間に、ぎっしりと無数の絵馬が並んでいた。絵馬を吊るす棚がずらりと奥まで続く。その木枠に鈴なりにさまざまな絵馬がくくりつけてある。たくさんありすぎてなんだか不気味だった。>
   田口ランディの短編「縁切り神社」の冒頭から
田口ランディ氏(女性)の描くストーリーはその絵馬から展開してゆくが、この神社を訪れる(近所を通る)たびに、別の「なにかの不気味さ」を感じてしまう。地の底に潜む「不気味な何か」が伝わってくる。かすかに揺すられるような「震動」を感じてしまうのは自分だけであろうか。その震動は、本殿の北方150mに置かれた崇徳天皇の御廟(遺髪塚)から安井金比羅宮(崇徳上皇を祀る)に至る地中に潜む崇徳上皇の「怨霊」が起こしているのだと確信する。
  自分「なんか揺れてるよな?」
  Eちゃん「工事やってないし、バスが通るせいやな、」
1156年(保元元年)7月、朝廷の内紛から武力衝突が起こる。崇徳(すとく)上皇は後白河天皇との戦いにわずか一日の戦いで敗れ去る(保元の乱)。敗れた崇徳上皇は仁和寺に出頭、乱から10日後には讃岐(四国)へ配流となる。崇徳上皇は再び都へ戻ることなく、1164年(長寛2年)8月26日に46歳で崩御する(暗殺説あり)。遺骸は火葬された後、白峯陵(香川県坂出市青海町の白峰山山頂の崖際)に葬られるのだが、上皇の怨念はすさまじく、高屋神社の辺りで棺(ひつき)からは血がにじみだし「血の宮」となり、火葬された遺煙は山麓にさまよい「煙の宮」(青海町稚児ヶ嶽の麓)を作りだす。翌年、讃岐の金毘羅宮は崇徳上皇の霊を祀るのだが、4年後の仁安3年、崇徳上皇に仕えていた西行法師(法名は円位)が荒廃した白峯陵を詣でた際、崇徳上皇の怨霊が悪魔の形相で現れ、西行と激論をかわす(「雨月物語」巻之一 ちくま学芸文庫版P38にその場面の挿絵あり)。1177年(安元3年)になると都周辺は不穏な状況となり、崇徳上皇の怨霊が問題視され始める。前年から後白河院に近い人々の死が頻発し、この4月には京都の大火により大極殿が焼け落ちてしまう。1185年(寿永4年)ついに崇徳上皇の怨霊(私怨)は、西の海(壇ノ浦)に平氏一門を漂わせ滅ぼしてしまう。崇徳上皇が西行に語った予言はすべて歴史の真実となったのだ。かって崇徳上皇に仕え寵愛された阿波内侍(あわのないし)が、上皇の遺髪を貰い受け、塚を築き納めたその場所が、白峰神宮が管理する上記の崇徳天皇御廟(祇園新地甲部歌舞練場の裏手)といわれる。安井金毘羅宮を訪れるなら「崇徳上皇御廟の説明板」も必読なのだと強調する。 *上田秋成「雨月物語」(安永5年刊)の「白峯」を参照

  Eちゃん「ねえ、わかったから、早く縁切り縁結びのとこいこう」    
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安井金比羅宮の金比羅会館前に置かれた縁切り縁結び碑(いし) 願い事が書かれた「形代」がびっしりと貼られている 願い事を書いた「形代」を手に願い事を念じながら碑の表(表と表示された石がある)から裏へ穴をくぐる これで悪縁を切り次に裏から表の方へくぐり良縁を結ぶ 最後に「形代」を碑に貼るのだ (右写真)東大路通の大鳥居には「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」の横断幕
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(左写真)左奥に拝殿(本殿) 右は絵馬館前の藤棚 村上天皇の「安井の藤」碑が置かれる (右写真)田口ランディの「縁切り神社」の女主人公は無数といえる絵馬の中に自分の名を見つけることにより心の闇に陥ってゆく・・・
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(左写真)「形代」には実名・住所が神様に人違いされぬようしっかり書かれている 悪縁切りの側の文字が濃く強く書き込まれているように見えてしまう (右・下写真)神社の縁起と縁切り縁結び碑の説明は各々の板を参照してください
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(右写真)縁切り縁結び碑前のEちゃん・・ついにくぐらず仕舞い 「だってスカートだからくぐれないもん」 周辺を見回すとカメラを構えた観光客だらけだった 
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参照
田口ランディ「縁切り神社」(短編集)幻冬舎文庫2001年刊
posted by y.s at 12:03| Comment(2) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私の住んでいる北区から、石神井川沿いをずっと歩いて行くと、板橋本町に辿り着きます。そこにも「縁切り榎」があります。榎はすっかり朽ちてしまい、今は3代目?になっており、初代は幹の一部が保存されています。和宮もこの場所を避けて江戸に嫁いできたそうですから、それなりの効き目はあったのだと思います。縁切りのみのお願いなので、絵馬には生々しいことが書かれています。いつでしたか、和泉バカや・・・じゃなくて元彌の妻が、テレビ東京で、毎年ここに初詣に行くと話していましたが、一体何と縁切りしたいのでしょうね?昔、別名いわのさかと呼ばれていて、山谷どころじゃない事件があったから、赤字ばかりの生活から縁切りしたい・・・だけじゃなさそう。
Posted by 定マニア at 2014年04月22日 09:30
6〜7年前に旧中山道板橋宿・本町に写真を撮りに訪れたことがあります。縁切榎前と名付けられた信号の真下に小さい祠(大六天神社)があり、向かって右側に神木(えのき)がありました。和宮は榎の枝から根元まですっぽりと菰(こも)で包んでから通ったそうです。この榎の下を迂回して避けて江戸入りした皇女もいます。10代と12代将軍に降嫁した五十宮と楽宮です。 江戸期には榎の樹皮を削りとって持ち帰り、煎じて離縁したい夫にこっそり飲ませると、不思議なことに夫側から離婚話を持ちかけられたようです。当時は縁切り寺に駆け込む以外に女性側には方策はなかったですから、まさに神の木だったようです。祠の脇に石板にはめ込まれた先代?の榎の切り株の写真も撮ってあります。 仲宿の高野長英の隠棲地や下板橋宿の戦時中に消滅した板橋遊郭跡、本陣(新撰組近藤勇捕縛地)・脇本陣、「板橋」の地名発祥の石神井川にかかる橋等々を撮影してありますが、まったくアップせずに放置状態です。
実のところ「旧中山道の縁切榎」はまったく忘れていました。
Posted by 管理人 at 2014年04月22日 21:56
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